破天荒悪魔、始動
◆アルディア共和国・エレナのアパート
早朝五時。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、小さな部屋を照らしていた。
古びた二LDKのアパート。
小さなダイニング。
使い込まれたソファ。
壁には家族写真が一枚だけ飾られている。
五年前に撮ったものだった。
まだ母も笑っていた頃の写真。
アベルはまだベッドで眠っている。
そのときだった。
ズゥゥン……。
建物全体が揺れた。
アベルが飛び起きる。
「じ、地震!?」
ベッドから飛び降り、慌てて部屋を飛び出した。
「姉さん! 大丈夫!?」
リビングへ駆け込んだ瞬間、言葉を失う。
テーブルはひっくり返り、椅子は倒れ、床には細かなひびが走っている。
部屋の中央では、黒い魔法陣がゆっくり消えていく。
その中心で、ジルが大きく伸びをした。
「ふぁ〜あ……」
「あ、起きた?」
「ちょうど迎えに来たところ」
アベルは固まる。
「起きた?じゃないよ」
「……何やってるの?」
ジルは不思議そうに首を傾げた。
「転移してきただけだけど?」
アベルが不機嫌そうに言う。
「だけじゃないよ!!」
そこへ、眠そうな目をこすりながらエレナも部屋から出てきた。
「朝からうるさいわね……」
部屋を見渡す。
「……何これ」
ジルは悪びれもせず笑う。
「ちょっと転移したら、こうなっちゃった」
エレナも呆れ顔で言う。
「ちょっとじゃないでしょ!」
アベルは頭を抱える。
「ベルツはこんなことしなかったよ!」
ジルは悪びれず笑う。
「ベルツは真面目だからねぇ」
アベルが叫ぶ。
「ベルツはインターホン鳴らして、玄関から入ってきてたよ」
ジルは笑いながら手を振る。
「細かい細かい」
「アタシはアタシ」
「アタシのやり方でやるわ」
「あとね、ベルツは後から合流するって」
「どうも、アタシだけじゃ心配らしいのよね」
エレナは苦笑した。
「……その判断は正しい気がするわ」
「失礼ね」
ジルは頬を膨らませる。
アベルはふと思い出す。
「そういえば……」
「ベルツって、朝ご飯まで作ってくれてたよね?」
ジルはきょとんとした。
「朝ご飯?」
「そんなのないわよ」
「え?」
「各自で食べればいいじゃない」
アベルは思わず天井を見上げた。
「ベルツって、本当に面倒見が良かったんだな……」
エレナも小さく笑う。
「仕方ないわね」
「訓練前に何か食べましょう」
「この近くに朝から開いてるダイナーがあるわ」
「腹ごしらえしてから始めましょ」
ジルはニヤッと笑う。
「ダイナー?面白そうね」
三人は部屋を出る。
壊れたリビングを、そのまま残したまま。
アベルだけが最後まで振り返り、小さくため息をついた。
「……帰ってきたら、片付けるんだよね?」
ジルは笑顔で親指を立てる。
「頑張って、アベル」
「なんで僕なの!?」
朝日が街を照らし始め、車が走り始める。
通勤する人々が駅へ向かい、自転車に乗った学生たちが横を通り過ぎていく。
エレナはジルの背中を見て足を止めた。
「ねえ」
「ん?」
「その翼、消せないの?」
ジルは不思議そうに振り返る。
「消せるけど?」
「じゃあ消して」
「なんで?」
「そのまま歩いたら、大騒ぎになるでしょ」
「ああ、そういうことね」
ジルが軽く指を鳴らす。
フワッ。
黒い翼が黒い粒子となって空へ溶けていった。
アベルは思わず目を見張る。
「すごい……」
ジルは両肩を回して笑う。
「これでいい?」
エレナは頷く。
「人間界にいる時は、基本的に消しておいて」
「はいはい」
ジルは面倒くさそうに手を振る。
「人間って、不便ねぇ」
アベルは苦笑する。
「それが普通なんだよ」
三人は住宅街を歩き、やがて大通りへ出る。
道路沿いにはコンビニやドラッグストア。
その隣には、大きなガラス張りのダイナーが建っていた。
店内には仕事前の会社員やトラック運転手たちが朝食を食べている。
「ここよ」
エレナが先頭で店へ入っていく。
◆ダイナー《銀のスプーン》
店員に案内され、窓際の席へ座る三人。
ジルは店内を興味深そうに見回していた。
「へぇ……」
「人間って、こんな所で毎日食べてるのね」
エレナがメニューを開きながら尋ねる。
「来たことないの?」
「ないわ」
ジルは興味津々でメニューを眺めながら答える。
「人間界へ来ること自体、滅多になかったし」
「食べてる人間は見たことあるけど」
「アタシが食べるのは今日が初めて」
アベルは驚く。
「えっ?」
「悪魔って食事しないの?」
「悪魔界でも食事はするわよ」
ジルは笑った。
「アタシが人間界の物を食べたことがないだけよ」
店員が注文を取りに来る。
エレナはパンケーキのモーニング。
アベルはハムエッグセット。
ジルは写真だけ見て、一番大きな朝食プレートを注文した。
しばらくして料理が運ばれてくる。
焼きたてのパン。
目玉焼き。
厚切りベーコン。
ソーセージ。
サラダ。
湯気を立てるスープ。
香ばしい匂いがテーブルいっぱいに広がる。
ジルは目を輝かせた。
「すごい……」
「これ全部食べていいの?」
アベルが笑う。
「注文したんだからね」
ジルはフォークを手に取り、恐る恐るベーコンを一口。
その瞬間だった。
「…………」
動きが止まる。
エレナが首を傾げる。
「どうしたの?」
ジルはゆっくり顔を上げた。
「なにこれ……」
もう一口。
さらにパン。
スープ。
目玉焼き。
止まらない。
「おいしい!!」
思わず大きな声が店内へ響いた。
周囲の客が一斉にこちらを見る。
ジルはまったく気付いていない。
「人間って、こんな美味しい物食べてたの!?」
アベルは吹き出した。
「知らなかったの?」
「知らないわよ!」
ジルは夢中で食べ続ける。
「悪魔界じゃ、こんなの食べられないもの!」
エレナも思わず笑った。
「そんなに気に入ったの?」
ジルは真剣な表情で何度も頷く。
「決めた」
「これから人間界へ来たら、毎回食べる」
「新しい趣味にするわ」
アベルは苦笑した。
「修行より楽しみにしてそう」
ジルは即答する。
「当たり前じゃない」
「修行は仕事」
一拍置いて、満面の笑みを浮かべた。
「でも、ご飯は幸せだからね」
エレナとアベルは顔を見合わせ、小さく笑った。
三人は朝食を終え、満足そうに席を立った。
店員が笑顔で伝票をテーブルへ置く。
「ありがとうございました」
ジルは伝票をじっと見つめた。
「……これ、何?」
アベルは一瞬固まる。
「え?」
「だから、これ」
ジルは紙をひらひら振る。
「何の紙?」
アベルは嫌な予感がした。
「まさか……」
「ジル」
「お金、持ってないの?」
ジルは不思議そうな顔で答えた。
「持ってるわけないじゃない」
「悪魔界じゃ使わないもの」
あまりにも当然という口調だった。
アベルはゆっくりエレナを見る。
「……姉さん」
エレナも気まずそうに視線を逸らす。
「アベル」
「払える?」
「私も今月、お金なくて」
アベルは頭を抱えた。
「姉さんまで!?」
「ごめん」
「魔物退治ばっかりで、最近バイト行けてないの」
アベルは深いため息をつく。
「僕だって同じだよ」
「最近は姉さんのことが心配で、シフト減らしてたんだから」
アベルは財布を取り出す。
中には数枚の紙幣と小銭。
「……足りるかな」
恐る恐る数え始める。
一枚一枚確認し終えると、小さく息を吐いた。
「よかった」
「ギリギリ足りた……」
エレナは胸を撫で下ろす。
「助かったわ」
「助かってないよ……」
アベルは肩を落としながらレジへ向かった。
その背中を見送りながら、ジルが首を傾げる。
「人間って大変なのね」
「ご飯を食べるだけで、お金が必要なんだ」
エレナは苦笑する。
「そういう世界なの」
「悪魔界は違うの?」
「力があれば、大抵どうにでもなるし」
ジルはケロッと言う。
「食べ物なんて、その辺で狩ればいいじゃない」
アベルはレジから戻ってきて聞き返す。
「それって、野生動物と変わらないよね……」
ジルは満面の笑みで頷いた。
「そうよ」
エレナとアベルは顔を見合わせ、同時にため息をついた。
店を出ると、朝の街はすっかり活気づいていた。
会社員が駅へ向かって足早に歩き、自転車に乗った学生たちが通り過ぎていく。
ジルは大きく伸びをした。
「さて」
「お腹もいっぱいになったし」
「今日も魔獣狩りよ」
「戦い方は、実戦で覚えるのが一番だからね」
そう言うと、右手を前へかざす。
黒い魔法陣が歩道いっぱいに広がり始めた。
エレナは慌てて腕を掴む。
「ちょっと待って!」
「ん?」
「ここで転移魔法なんて使わないで!」
ジルは周囲を見回す。
「なんで?」
「人がいっぱい歩いてるでしょ!」
通勤中の会社員。
犬を散歩させる老人。
登校中の学生。
すぐ近くには何十人もの人影がある。
ジルは「あっ」という顔をした。
「そうだった」
「人間には見られちゃ駄目なんだっけ」
アベルは苦笑する。
「ベルツなら、こんな所じゃ絶対使わないよ」
ジルは口を尖らせた。
「ベルツって、本当に細かいのよねぇ」
「細かいんじゃなくて、それが普通だから」
エレナが呆れながら言った。
「ほら、人の少ない所へ行くわよ」
三人は大通りを離れ、細い路地へ入る。
さらに歩き、高層ビルの裏手へ。
人の気配はなく、車の音だけが遠くから聞こえてくる。
エレナは辺りを見回した。
「ここなら大丈夫ね」
ジルはニヤリと笑う。
「最初からこうすればよかったのね」
右手を掲げる。
黒い魔法陣が静かに広がった。
複雑な紋様が淡く輝き始める。
「じゃあ行くわよ」
「次の相手は、ホーンベア」
「熊型の魔獣よ」
「魔狼より力が強く、防御も硬い」
「でも、今のアンタにはちょうどいい」
エレナは静かに拳を握る。
「望むところよ」
アベルは小さく息をのんだ。
「今日も大変な一日になりそうだ……」
ジルが笑う。
「安心しなさい」
「死なない程度には鍛えてあげるから」
「その基準が怖いんだって……」
アベルの声を最後に、黒い光が三人を包み込む。
次の瞬間。
三人の姿は、静かに消えていた。




