新たな教育係
◆アルディア共和国・北の森 深部
五体のオーガが咆哮を上げた瞬間だった。
黒い影が風を裂く。
ジルの姿が消えた。
――ズバッ。
聞こえたのは、それだけ。
一瞬の静寂。
そして。
ドサッ……。
五体のオーガが同時に崩れ落ちた。
肩。
胴。
腰。
すべてが寸分違わず切断されている。
まるで最初から三つだったかのように、巨体がゆっくりと地面へ滑り落ちた。
森が静まり返る。
ジルは黒い翼を軽く払うと、小さくため息をつく。
「ふぅ……」
「つまんないわね、この程度なの」
アベルは呆然と立ち尽くす。
(……何が起きた?)
(見えなかった……)
(何も)
ベルツは額へ手を当て、小さくため息をついた。
「ジルさん……」
「せめて一体くらい残してください」
ジルは少し首を傾げる。
「えー?」
「だって面倒だったんだもん」
「まとめて終わらせた方が早いでしょ?」
ベルツは静かに首を振る。
「だから破天荒だと言われるのです」
ジルは楽しそうに笑う。
「ベルツが丁寧すぎるだけよ」
「悪魔なんて、これくらい普通普通」
エレナは切断されたオーガを見つめる。
そしてジルへ視線を向けた。
「……あんた、強いわね」
ジルはニヤリと笑う。
「当然でしょ?」
「アタシも今はアザエルさんの側近なんだから」
アベルは恐る恐る尋ねた。
「側近って……ベルツも側近だよね?」
ベルツは静かに頷く。
「ええ」
「私は補佐と事務担当です」
「事務……?」
ベルツは少しだけ視線を逸らした。
「ええ……」
「色々と忙しいのですよ」
アベルは首を傾げる。
「何がそんなに忙しいの?」
ベルツは咳払いを一つする。
「……主様の紅茶の在庫管理です」
「……紅茶?」
「はい」
「アザエル様は紅茶を切らすと機嫌が悪くなりますので」
「世界の平和のためです」
「絶対違うよね!!」
アベルの叫びが森へ響く。
ジルは腹を抱えて笑った。
「あははは!」
「ベルツったら、毎日せっせと茶葉を集めてるのよ」
「主様のティータイムは私が守ります、とか言っちゃってさ」
「言ってません!」
ベルツは即座に否定する。
「少なくとも、そのような恥ずかしい言い方はしておりません」
「似たようなもんじゃない」
ジルは肩を震わせながら笑い続ける。
アベルも思わず苦笑した。
だが、その笑顔はすぐに消えた。
(……姉さんは)
(これから、こんな悪魔たちと生きていくんだ)
(俺は……本当についていけるのかな)
ベルツは気持ちを切り替えるようにジルへ向き直る。
「さて」
「明日から数日は、ジルさんがエレナ様の教育係となります」
エレナは肩を回しながら答えた。
「別に誰でもいいわ」
「強くなれるなら」
ジルは獰猛な笑みを浮かべる。
「任せなさい」
「壊れない程度には鍛えてあげる」
アベルが青ざめる。
「壊れない程度って、どういうこと!?」
ベルツは静かにアベルを見る。
「アベル様も同行してください」
「エレナ様を支えるのが、あなたの役目です」
「え?」
「ぼ、僕も?」
「ええ」
ベルツは頷く。
「ジルさんは……その……」
一拍置く。
「守るという概念が少々薄いので」
ジルは悪びれもせずニヤニヤ笑う。
「薄くないわよ」
「必要なら守るわ」
「必要ならね」
「必要って何!?」
アベルは頭を抱えた。
ジルはクスクス笑いながら翼を広げる。
「安心しなさい」
「死なない程度には面倒見てあげる」
ベルツが即座に訂正する。
「人間は簡単に死にます」
「その基準で判断しないでください」
「細かいわねぇ」
ジルは呆れたようにベルツを見た。
エレナはそんな二人を見ながら、小さく笑った。
「……賑やかな悪魔たちね」
アベルは、ふと思い出したようにジルを見る。
「そういえばさ」
「ん?」
「さっき、『今は』アザエルさんの側近って言ってたよね」
一拍。
「前は違ったの?」
ジルの笑みが、ほんの少しだけ止まる。
「……耳いいわねぇ」
苦笑しながら頭をかく。
「まあ、昔はいろいろあったのよ」
ベルツが静かに咳払いをした。
「ジルさん」
「分かってる、分かってる」
ジルは軽く手を振る。
「今ここで話すようなことじゃないわ」
アベルは納得できない表情を浮かべる。
「でも気になるよ」
ジルはニヤリと笑う。
「そう?」
「じゃあ、一つだけ教えてあげる」
一歩前へ出る。
「アタシは昔――悪魔界で一番偉い人の側近だったのよ」
アベルが目を丸くする。
「えっ?」
エレナも思わずジルを見る。
「そんなに偉かったの?」
ジルはどこか懐かしそうに笑う。
「ま、今となっては昔話だけどね」
少しだけ空を見上げる。
「悪魔界も、五年前にずいぶん変わっちゃったし」
アベルが首を傾げる。
「五年前?」
ジルは口を開きかける。
「それは――」
「ジルさん」
ベルツは静かに目を閉じた。
「……その話は、まだ伏せておきましょう」
ジルは小さく笑う。
「はいはい」
「ベルツって本当に真面目なんだから」
「少しくらい話したっていいじゃない」
「駄目です」
ベルツは即答した。
「いずれ話す時は来ます」
「ですが、それは今ではありません」
アベルは少し残念そうに息を吐く。
「余計気になるよ……」
ジルは意味深な笑みを浮かべる。
「ふふっ」
「そのうち、嫌でも知ることになるわ」
その笑みには、どこか寂しさが混じっていた。
森を吹き抜ける風が、四人の間を通り過ぎる。
こうして――。
エレナとジルによる、新たな修行の日々が始まろうとしていた。




