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『天使を殺す契約をした』 ~たとえ神を敵にしても~  作者: 彩川準


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ジルの初訓練

◆アルディア共和国・東の山岳地帯

 黒い光が晴れる。

 次の瞬間、三人は岩肌がむき出しになった山岳地帯へ立っていた。

 見渡す限り岩場ばかり。

 ところどころに木々が生えているものの、北の森とはまるで景色が違う。

 乾いた風が吹き抜け、砂埃を舞い上げた。


 エレナは辺りを見回す。

「ここは……?」


 ジルは満足そうに頷く。

「ホーンベアの縄張りよ」

「街からも遠いし、人も来ない」 「多少暴れても問題ない場所」


 アベルは辺りを見渡しながら呟く。

「岩場が多いね、こんな所にホーンベアがくるの?」


 ジルは笑った。

「ホーンベアは洞窟を住処にしていて、洞窟内には水場もある」

「しばらく待てば、餌を求めて少し先の森に移動するはずよ」


 エレナは拳を握る。

「それで?」

「今日は何を教えてくれるの?」


 ジルは岩へ腰を下ろした。

「特に何も」


「……え?」


「来たら倒す」

「それだけ」


 アベルが目を丸くする。

「説明は?」


「必要?」


「ベルツは最初に色々説明してくれたよ!」


 ジルは楽しそうに笑う。

「ベルツは頭で教えるタイプ」

「アタシは体で覚えさせるタイプ」

「戦って、失敗して、覚える」

「その方が早いもの」


 エレナは苦笑した。

「ずいぶん大雑把ね」


「細かいこと考えてる暇なんて、実戦にはないわよ」


 そのときだった。

 ズシン……。

 地面が小さく揺れる。

 ズシン。

 ズシン。

 一定の間隔で近付いてくる重い足音。


 アベルの表情が強張る。

「来る……!」


 岩陰の向こうから巨大な影が姿を現した。

 全身を黒褐色の体毛で覆われた巨大な熊。

 額からは一本の巨大な角。

 赤黒い瞳が三人を睨み付ける。


 アベルが息を呑む。

「ホーンベア……」


 しかし、それだけでは終わらなかった。

 さらに一体。

 もう一体。

 三頭のホーンベアが並び、低く唸り声を上げる。


 アベルの目が見開く。

「三体も……!」


 ジルは座ったまま指をさした。

「ほら」

「行ってきなさい」


 エレナは思わず聞き返す。

「それだけ?」


「うん」


「作戦とかは?」


「ない」


「弱点とか!」


「自分で探して」


 ホーンベアが地面を蹴る。

 ドォンッ!!

 一直線に突進してきた。


 エレナも慌てて駆け出す。

「はぁぁぁっ!!」

 拳を振り抜く。

 ガァン!!

 鈍い衝撃音。

 まるで巨大な岩を殴ったような感触だった。


「硬っ――!」


 次の瞬間。

 ホーンベアの太い腕が横薙ぎに振り抜かれる。

 ドォォン!!

 エレナの身体が吹き飛んだ。


「姉さん!!」

 アベルが叫ぶ。


 エレナは岩へ叩き付けられ、そのまま転がった。

 土煙が舞い上がる。


「痛たた……」

 エレナはゆっくり立ち上がる。

 頬を押さえながら苦笑する。

「昨日のオーガより重いじゃない……」


 ジルは座ったまま笑った。

「立てるなら問題なし」

「もう一回」


「簡単に言うわね……」

 エレナは再び構える。

 今度は真正面からではなく横へ回り込む。


 ホーンベアが腕を振る。

 その攻撃をエレナは紙一重でかわす。

(真正面じゃ駄目)

(硬すぎる)

(どこなら通る?)


 頭。

 胸。

 腕。

 視線を走らせる。


 その瞬間だった。

 ホーンベアが前足を踏み込んだ拍子に、膝が一瞬だけ沈む。


(今!)

 エレナは地面を蹴った。

 拳を膝へ叩き込む。

 ゴキッ。

 鈍い音が響いた。


 ホーンベアの巨体が大きく傾く。


 ジルの口元が少しだけ上がる。

「そう」

「そこよ」


 エレナは倒れかけたホーンベアの懐へ潜り込む。

「はぁっ!!」

 二撃目。

 三撃目。

 正確に急所へ拳が突き刺さる。

 ホーンベアは大きく唸ると、そのまま崩れ落ちた。


 アベルが目を見開く。

「倒した!」

「姉さん、凄い!」


 しかし残る二頭が同時に襲い掛かる。


 エレナは息を整えながら迎え撃った。

 最初ほど力任せには殴らない。

 足を止めず。

 相手を見て。

 狙いを定める。


 一体。

 そしてもう一体。


 最後のホーンベアが倒れた頃には、エレナの呼吸は大きく乱れていた。

 額から汗が流れ落ちる。

「はぁ……」

「はぁ……」


 ジルは立ち上がる。

 倒れたホーンベアを一瞥すると、小さく頷いた。

「最初に比べたら全然いいじゃない」


 エレナは息を整えながら笑う。

「ベルツとは……全然教え方が違うわね」


「でしょ?」

 ジルは楽しそうに笑った。

「ベルツは考えさせる前に答えを教える」


「アタシは、自分で答えを見つけさせる」

「その方が忘れないから」


 アベルも苦笑する。

「見てるこっちは寿命が縮むけどね……」


 ジルは満足そうに頷いた。

「今日はまだ終わりじゃないわよ」


 エレナは思わず顔をしかめる。

「まだやるの?」


「もちろん」

 ジルは笑みを浮かべながら近くの大岩へ腰を下ろした。


「その前に、少し休憩しましょう」

 乾いた風が山岳地帯を吹き抜け、戦いの熱を静かにさらっていった。


 エレナは大きく息を吐きながら岩へ背中を預ける。

「はぁ……」

「ベルツの修行より疲れるわ」


 ジルはクスッと笑った。

「そりゃそうよ」

「ベルツは頭を鍛える先生」

「アタシは体で覚えさせる先生だから」


 アベルは苦笑しながら水筒を差し出す。

「姉さん、水」


「ありがと」

 エレナは水を一口飲み、ようやく表情を緩めた。


 少しの沈黙。

 山を吹き抜ける風だけが耳に届く。


 アベルは、ふと思い出したようにジルを見る。

「そういえばさ」

「ん?」

「前にも聞いたけど……」

「ジルって、アザエルさんの前は誰の側近だったの?」


 ジルは空を見上げ、小さく笑った。

「気になる?」


「もちろんだよ」


「アザエルさんの側近ってだけでも凄いのに、その前にも仕えてた人がいたんでしょ?」


 ジルは少し考えるように目を細める。

「悪魔界で、一番偉かった人よ」


 アベルが目を丸くする。

「一番偉いって……」

「魔王?」


 ジルは小さく頷いた。

「そう」

「前の魔王」

「ラグエル様よ」


 エレナも興味深そうに顔を上げる。

「前の?」

「今は違うの?」


 ジルの笑みが少しだけ薄れる。

「五年前にね」

「悪魔界はいろいろあったの」

 一瞬だけ、空気が静かになる。


 アベルは恐る恐る尋ねた。

「その前の魔王は……」


 ジルは首を横へ振る。

「生きてるわ」

「ちゃんとね」

 どこか安心したように笑う。


 エレナが首を傾げる。

「なら、どうしてアザエルさんのところへ?」


 ジルは少しだけ遠くを見る。

「……助けてもらったからよ」

「前魔王ラグエル様も」

「アタシも」

「みんなも」

「それだけ」


 アベルはさらに聞こうとする。

「助けてもらったって――」


 ジルは人差し指を立てた。

「今日はここまで」

「話し始めると長くなるから」

「そのうち話す機会もあるわ」


 アベルは少しだけ口を尖らせた。

「また秘密かぁ……」


「秘密じゃないわ」

 ジルは笑う。

「今はまだ、その時じゃないだけ」


 エレナは苦笑した。

「悪魔って、みんな意味深なのね」

「ベルツもそうだったし」


「ベルツは真面目すぎるだけよ」

 ジルが笑った、そのときだった。

 ズシン……。

 地面が揺れる。

 ズシン。

 ズシン。

 重い足音が山の向こうから響いてきた。


 ジルは立ち上がり、音のする方へ視線を向ける。

「休憩終わり」

 岩陰から、三体のホーンベアが姿を現す。

 赤い瞳で三人を睨みながら、ゆっくりと近付いてくる。


 エレナは立ち上がり、拳を握った。

「また三体ね」


 ジルはニヤリと笑う。

「さて、エレナ」

「レッスンの時間よ」


 エレナは小さく頷くと、地面を蹴り、一人でホーンベアたちへ駆け出した。


 一頭目のホーンベアが咆哮を上げ、真正面から突進した。

 ドォンッ!!

 エレナは横へ飛び、拳を振るう。

 鈍い衝撃音が山へ響いた。


 その様子を見ながら、アベルはぽつりと呟く。

「……姉さん、本当に強くなったな」


 ジルは腕を組み、戦いを眺める。

「まだまだだけどね」

「でも、どんどん強くなるわよ」


 アベルは少し俯いた。

「僕も……強くなりたい」

 ジルは横目でアベルを見る。

「姉さんを守れるくらいに」


 一瞬だけ沈黙が流れる。


 前方では、ホーンベアの爪がエレナを襲う。

 エレナは身をひねって避け、その勢いのまま膝へ拳を叩き込んだ。

 ゴキッ。

 巨体が大きく揺れる。


 ジルはエレナを見て小さく笑う。

「いい判断ね」


 アベルは意を決したように口を開いた。

「ねえ、ジル」


「ん?」


「悪魔って、人間と契約できるんだよね?」


「もちろん」


「じゃあ……」

 アベルはエレナを見つめたまま言った。

「ジルは僕とも契約できる?」


 ジルは少し驚いたように目を瞬かせる。

「できるわよ」


 その答えに、アベルの表情が明るくなる。

「本当に!?」


「でも、やらない」


「……え?」


 ジルはあっさりと言った。

「アザエルさんとベルツに止められてるの」

「アベルとは契約するな、ってね」


 アベルは目を丸くする。

「どうして?」


「さあ?」

 ジルは苦笑する。

「理由までは聞いてないわ」

「ただ、あの二人が同じことを言うなんて珍しいから、素直に従ってるだけ」


 そのときだった。

 ドォォン!!

 一頭目のホーンベアが地面へ倒れる。

 エレナは息を整える間もなく、二頭目へ駆け出した。

「はあぁぁっ!」

 鋭い一撃が脇腹へ突き刺さる。


 アベルは思わず笑みを浮かべた。

「姉さん、すごい……」

 そして、再びジルへ向き直る。

「もし、僕と契約したら……」

「僕も姉さんくらい強くなれるの?」


 ジルはゆっくり首を横へ振った。

「無理ね」


「えっ?」


「アタシじゃ、エレナほどの力は与えられない」


 アベルは首を傾げる。

「どうして?」


「悪魔との契約で得られる力には限界があるの」

 ジルは静かに答えた。

「契約者は、契約してくれた悪魔以上にはなれない」

「アタシは強いわよ?」

「でも、アザエルさんには勝てない」

「だから、アタシが与えられる力にも限界がある」


 アベルは納得したように頷いた。

「じゃあ……」

「アザエルさんだから、姉さんはここまで強くなれたんだ」


 ジルは笑う。

「そういうこと」

「アザエルさんはね」

「最初から、エレナを普通の契約者として育てる気なんてなかったのよ」

「だから、ここまで強くなれた」


 前方では、二頭目のホーンベアが大きく仰向けに倒れた。

 エレナは肩で息をしながら、最後の一頭を見据える。


 アベルは少し考え込み、再び尋ねた。

「それなら……」

「前魔王ラグエルなら?」

「それとも、今の魔王……なら?」

「姉さんより強くできるの?」


 ジルの表情が少しだけ真面目になる。

「ラグエル様は無理ね」

「まだ本来の力を取り戻していないもの」


「じゃあ、現魔王は?」

 ジルは鼻で笑った。

「やめときなさい」

「契約なんてしてくれないわ」

「もし近付けたとしても……」

 一拍置く。


「先に殺される」


 アベルは思わず息を呑んだ。

「そんなに危険なの?」


「現魔王バルゼオン……」

「人間を駒としか思ってないわ」


 前方で最後のホーンベアが大きく腕を振り下ろす。

 エレナはその攻撃をかいくぐり、懐へ飛び込む。

「そこっ!」

 渾身の一撃。

 ドゴォン!!

 ホーンベアの巨体が大きく傾いた。


 アベルは視線を戻す。

「じゃあ……」

「姉さん以上になれる悪魔なんて、もういないの?」


 ジルは少しだけ考え込む。

 少しの沈黙。

「……いることはいるわ」


「え?」


「もし、人間と契約する可能性があって」

「しかも、アザエルさんと同じくらい強い悪魔界の存在――」

 ジルはゆっくりとその名を口にした。

「セラフィナ」


 アベルは聞き返す。

「……セラフィナ?」


 その瞬間だった。

 ドォォォン!!

 最後のホーンベアが地面へ倒れ込む。


 エレナは大きく息を吐きながら二人のもとへ歩いてくる。

「終わったわ」


 ジルはすぐに笑顔へ戻った。

「お疲れさま」


 アベルは気になって仕方がない様子でジルを見る。

「ねえ、そのセラフィナって――」


 ジルはニヤリと笑った。

「その話は、また今度」


 アベルは思わず肩を落とした。

「またそこまでなの……?」


 山を吹き抜ける風だけが、静かに三人の間を通り過ぎていった。




明日からしばらく、朝7時に1話アップしていきます。

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