契約の始まり
◆境界領域――人間界と天界の狭間
闇が世界を覆った。
先ほどまで空を埋め尽くしていた黄金の光が、一瞬にして飲み込まれる。
静寂。
誰も動けない。
いや、動かないのではない。
動けないのだ。
その場にいた高位天使たちは、一斉に空を見上げた。
裂けた空間の奥。
そこから、一人の男がゆっくりと姿を現す。
黒い外套。
漆黒の髪。
穏やかな笑み。
まるで散歩の途中で立ち寄ったかのような、気負いのない足取りだった。
だが、その姿を見た瞬間。
高位天使の一人が静かに口を開く。
「……異端の最上位悪魔」
わずかな沈黙。
「アザエル」
その名が響いた瞬間。
世界の空気がさらに重くなった。
アザエルは困ったように笑う。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか」
その声は穏やかだった。
だが、それだけで周囲の空間がゆらりと歪む。
ベルツが深々と頭を下げる。
「主様」
アザエルは軽く手を振った。
「お疲れ様、ベルツ」
そしてアザエルは視線をエレナへ向ける。
血まみれになりながら立つ彼女を見て、小さく息を吐いた。
「派手にやられたね」
エレナが笑う。
「遅いわよ」
「そうかな?」
アザエルは首を傾げる。
「僕はちょうどいい頃合いだと思ったけど」
最初に現れた高位天使が一歩前へ出る。
黄金の剣を構えたまま告げた。
「異端の悪魔、アザエル」
感情のない声だった。
「人間への干渉は規定違反だ」
アザエルは少しだけ笑みを深める。
「ご無沙汰でしたね、カルスさん」
「君たちは、いつも規定ばかりですね」
カルスは答えない。
「対象を追加認定」
剣先がアザエルへ向く。
「排除を開始する」
その言葉を聞いたアザエルは、楽しそうに笑った。
「やめておいた方がいいよ」
一歩だけ前へ出る。
それだけだった。
その瞬間。
カルスの足元の大地が音もなく沈んだ。
空間そのものが軋む。
高位天使たちの表情が初めて変わった。
わずかな動揺。
アザエルは笑顔のまま言う。
「今日は喧嘩をしに来たんじゃない」
エレナを見る。
「迎えに来ただけだ」
「私は帰る気ないけど」
エレナが言った。
アザエルは少し困ったように笑う。
「あるんだよ」
指を鳴らした。
闇が渦を巻く。
カルスが剣を振るう。
黄金の斬撃が闇を裂いた。
だが、届かない。
闇は斬れなかった。
次の瞬間。
景色が消えた。
◆アルディア共和国・森林地区
気が付くと、四人は森の中に立っていた。
冷たい風が頬を撫でる。
エレナが舌打ちする。
「逃がしたわね」
ベルツがその場に座り込む。
「逃げたんです!」
珍しく語気が強かった。
「あれ以上いたら本当に終わってました!」
エレナは黙った。
アベルは姉を見る。
肩から流れる血。
裂けた服。
震える足。
それでも平然と立っている――
が、呼吸がわずかに乱れていた。
その姿が痛々しかった。
「……姉さん」
エレナが振り返る。
「何?」
「どうして」
アベルの声が震える。
「どうして、そこまでするの」
少しだけ沈黙が流れる。
「悪魔なんかと契約してまで」
エレナは空を見上げた。
「……話したこと、なかったわね」
その言葉にベルツが目を細める。
エレナは静かに続けた。
「契約した日のこと」
〜回想〜二年前。
母を失ってから、二年が過ぎていた。
私は禁じられた契約陣の前に立っていた。
蝋燭の炎が揺れる。
魔法陣が赤黒く輝く。
そして。
一人の悪魔が姿を現した。
青年の姿をした悪魔。
穏やかな笑み。
「初めまして」
男は一礼した。
「上位悪魔ベルツです」
私は言った。
「あなたじゃない」
ベルツが固まる。
「……はい?」
「もっと強い悪魔を呼びなさい」
ベルツは苦笑した。
「いや、十分強い方なんですが……」
「最上位を呼んで」
迷いはなかった。
ベルツは困ったように頭を掻いた。
「……怒られるんですけどねぇ」
そう言いながら、静かに空を見上げた。
「主様」
その一言で――。
世界が静まり返った。
蝋燭の炎が止まる。
空気が凍りつく。
魔法陣が勝手に後退するように震える。
そして。
「ん?呼んだ?」
闇が笑った。
空間がゆっくりと裂け、その奥から一人の男が姿を現した。
黒い外套。
長い黒髪。
底知れない闇を宿した瞳。
だが、その口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
男は周囲を見回し、小さく笑う。
「珍しいね」
ベルツへ視線を向ける。
「君が僕を呼ぶなんて」
ベルツは苦笑した。
「私じゃありませんよ」
男の視線がゆっくりと動く。
そして、エレナで止まった。
「君か」
エレナは一歩前へ出る。
その眼差しに恐れはない。
最上位悪魔を前にしても、一歩も引かなかった。
「あなたが一番強い悪魔?」
アザエルは少し首を傾げる。
「少なくとも、その質問を僕にする人間は初めてだね」
「答えて」
「……そうだよ」
その返事を聞くなり、エレナは迷わず言った。
「私は天使を殺せる力が欲しい!私と契約しなさい」
ベルツが思わず目を丸くする。
(命令した……)
アザエルは吹き出した。
「ははっ」
楽しそうに笑う。
「君、本当に人間?」
「質問に答えて」
「母さんを殺した天使を殺す」
「復讐? ああ……なるほど。ガレス家か」
「いいよ」
アザエルはあっさり頷いた。
「その代わり、代償は必要だ」
「言って」
「君の父親の命」
「断る」
即答だった。
アザエルの笑みが少し深くなる。
「じゃあ、弟の命」
「断る」
「家族、どちらか一人」
「断る」
静かな部屋に沈黙が落ちた。
アザエルはエレナをじっと見つめる。
「復讐したいんだろ?」
「そうよ」
「だったら払えばいい」
「嫌よ」
「どうして?」
エレナは一度だけ目を閉じる。
「二年前に母さんを奪われたから復讐するの」
ゆっくりと目を開く。
「そのために家族を失ったら、何の意味もない」
アザエルは何も言わなかった。
ただ、その瞳だけがわずかに細くなる。
「面白いね」
その一言だった。
「普通の人間なら、力が欲しくて飛びつく」
エレナは黙っている。
「復讐者なら、なおさらね」
アザエルは笑う。
「でも君は違う」
数秒の沈黙。
「今日は契約はなしだ」
ベルツが驚いた。
「主様?」
アザエルはベルツへ視線を向ける。
「この子に、君を呼び出す呪文を教えてあげなさい」
「えっ?」
「気が変わるかもしれない」
「ですが……」
「いいから、教えてあげなさい!」
その一言でベルツは黙った。
「……かしこまりました」
アザエルはエレナを見る。
「もし、本当に契約したくなったら」
穏やかに笑う。
「ベルツを通して、僕を呼ぶといい」
闇が揺れる。
「それまで、君がどこまで足掻くのか見せてもらうよ」
その姿は闇へ溶けるように消えていった。
その後。
それから私は、何度もベルツを呼び出した。
天使について。
悪魔について。
世界について。
戦い方について。
ベルツは毎回、文句を言いながらも現れた。
「またですか、エレナ様」
「質問よ」
「今日で一八回目です」
「だから?」
「悪魔にも休日が欲しいんですが……」
そんなやり取りを繰り返しながら、二年が過ぎた。
それでも。
私は一度も契約を結ばなかった。
◆境界領域・第一層
――数日前。
雨が降っていた。
冷たい石畳の上に、血が流れる。
全身が痛い。
息をするだけで肺が焼ける。
私は負けた。
ベルツの情報を元に、天使に真っ向勝負を挑んだ結果だった。
初めて、圧倒的な力の差を思い知った。
薄れゆく意識の中、震える唇が言葉を紡ぐ。
「……ベルツ」
足音が聞こえた。
見慣れた青年が静かに膝をつく。
「……また私を呼びましたね」
私は笑う力も残っていなかった。
「アザエルを……呼んで……」
ベルツは何も言わず、小さく頷く。
空間が裂ける。
闇の向こうから、穏やかな声が響いた。
「ご無沙汰だね、エレナ」
アザエルだった。
彼は血まみれの私を見下ろし、静かに尋ねる。
「答えは決まった?」
私は震える手を伸ばす。
迷いはなかった。
「……契約する」
闇は形を持たず、ただ“意志”だけがそこにあった。
アザエルは、静かに微笑んだ。
その笑みは優しいのに、どこか“人間ではない何か”の温度をしていた。
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