第5話 婚約の届出
婚約の許可を得てから五日。
クラリスは、ホーディンクが要求する「花嫁修行」を忠実にこなしながら、焦れていた。
「まだ、婚約の届出の準備は整わないの?」
「いやあ、なかなか他が忙しくてですね」
クラリスは執務室を訪れ、書類仕事を担当している執務係に確認する。
ただ書類を揃えて提出すれば良いだけなのに、嫌がらせをされていることは明らかだった。
――絶対に、ホーディンクの仕業。まったく、レオナール様がもう認めたんだからもういいじゃないの!
そうは思うものの、ホーディンクのせいという確たる証拠もない。
「レオナール様、婚約の手続きがまだ終わらないのは少しおかしくないですか?」
仕方なく、画板に向き合うレオナールにそう問うてみたものの、元来絵以外に興味のないレオナール。その反応は薄かった。
「うーん、みんな忙しいんじゃないかなあ。そのうち進むんじゃない? 僕が承知しているから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
レオナールが承知していればよいという言葉は正しいのだろうし、安心させようとしてくれたのもわかる。しかし、クラリスにとっては身分の安定に関わる問題である。穏やかにはいられなかった。
この五日、クラリスの知る限り、レオナールは本当にずっと絵を描いていた。なんでも、家は兄が継ぐものだと思っていたから、小さい頃からずっと絵に傾倒していたという。
その話を聞いた際は、そりゃあ上手なはずだわとメイと二人呆れ顔になった。
しかしクラリスはこういうレオナールを嫌いではなかった。商売をする中で職人たちと付き合うことも多かったクラリスには、レオナールは要するに職人なのだと理解できたからだ。
「戻りましたー」
「おかえり、メイ。ありがとね」
しびれを切らしたクラリスは、メイに王宮の受付まで行ってもらい、手続きについて聞いてきてもらった。
「これにサインと家紋の印があって、あと手数料に金貨一枚を払えば終わりですって」
手続きは簡単で、明らかにこんなに日数のかかるものではなかった。クラリスはすぐに書面を用意し、レオナールの元へ向かう。
「レオナール様、これとこれにサインをお願いします。あとこちらにも。婚約の届出に必要なのですわ」
直接、委任状も含め必要なサインをもらう。
それを持って執務室へ。
「はい、これレオナール様の委任状。印を押してちょうだい」
「……確かに。はい」
皆、レオナールには素直だった。
こうして、クラリスが自分で動いたら半日であっさりと書類は揃った。
「では、王宮に出してこないとね」
「クラリス様、明日か明後日でもいいです? 今日はゴードン様へ報告に行く日ですから」
「あっ、そっか」
クラリスは、実家から状況報告をするように言われており、今日はメイをそれに向かわせる手筈になっていたのだ。
「では、自分で提出に行ってくるわ。商店の関係で役所手続きなんて慣れたものだから」
クラリスはそう言って身支度を始めた。
*
王宮は、公爵邸のすぐそばだ。馬車であっという間に到着する。歩けばよかったかなと思いながら、クラリスは馬車から降りる。
役所窓口は王宮の敷地内ではあるものの、入り口が本来の王宮門と分かれている。
クラリスは役所側へ回り、中の事務窓口へ向かった。
「この書類の提出、こちらでよろしいかしら」
窓口の担当がクラリスの差し出した書類を確認する。
貴族家用の窓口ではあるものの、クラリスが周りを見ると使用人と思われる者がほとんどであった。
クラリスは一応は貴族の令嬢としてドレスを着てきた。場違いでないか少々気になる。
「ええと、貴族家の婚約成立の届出ですね。クラリス・ボルワート男爵令嬢と……レオナール・アーヴィング公爵!?」
大きな声をあげる受付の子。
「……なにか?」
そんな反応にもなるだろうなと思いつつも、クラリスは至って冷静に声をかけた。
「いえ、すみません。書類としては問題ありませんが、代理であればお二人の委任状も必要になります。ご提出ください」
「はい、こちらがアーヴィング公爵の委任状。私は、本人よ」
「ご本人!?」
よく驚く人だとクラリスは苦笑いする。
「そうですわ。本人なら問題ないでしょう」
「……いえ、ええ、はい。失礼ですが、ご身分を証明するものはお持ちでしょうか」
「このペンダントで良いですか」
男爵家の一門となった際に、父からもらった家紋入りのペンダントを見せる。
「照会します……はい、確認できました。ありがとうございます。ええと、この度はご婚約、誠におめでとうございます!」
そういう事をする決まりなのか、窓口の担当者は大きな声で祝うとともに、パチパチパチと拍手をする。当然、周りの視線も集める。
「ありがとう……ちょっと恥ずかしいわね」
その時だった。
「あら、どなたか新しくご婚約されたの?」
恥ずかしがってやや下を向いていたクラリスに、カウンターの奥から声をかけてくる人がいた。
ウェーブのかかった長く明るい金髪で、女神かと見紛うような美貌。明らかに高位の貴族とすぐわかる、上質のドレス。
「これは、セラフィーヌ様!!」
受付の子が恐縮した表情で最敬礼する。
それもそのはず、その名はクラリスでも知っている、大変有名な名前であった。
――寵姫、セラフィーヌ様!
そこにいたのは偶然か、それとも役所に関係する仕事でもしているのか。
平民の身空には遠くからお見かけすることすら叶わないようなお方。突然の大物の登場に、クラリスの背中に冷たい汗が流れる。
「こ、これはセラフィーヌ様。お初にお目にかかります、クラリス・ボルワートと申します。私と、レオナール・アーヴィング公爵との婚約の届出に参りました」
クラリスは、噛まずに言えただけ自分を褒めたかった。
「あら、それはおめでとうございます。あのレオとねえ。応援するわ、頑張ってね。ボルワート家……ごめんなさい、存じ上げないですが、どちらのお家?」
とても柔らかく、包み込むような話し方。クラリスは、気品とはこういうものかと感心する。
――それにしても、この場で一番聞かれたくない事を……。
「……商会を営む、男爵家でございます」
思わず声が小さくなってしまうクラリス。
「ああ! 少し前に叙爵されたお家ね! その際の叙爵の儀には私も参列しておりましたの。もうレオに目をつけるなんて、大したものね。あの子はいい子ですよ」
――これは褒められているのか、皮肉なのか。
たわいもない会話なのかもしれないが、クラリスの背中にはいちいち冷や汗が流れる。
皮肉であってもそう取らない方が害が少ない――そう判断して、クラリスは素直に受け取ることにした。
「ありがとうございます。レオナール様とは親しくされているのですか?」
「うふふ、王家と公爵家はよく顔を合わせるもの。もうすぐそちらでパーティがあるでしょう? そこでまたお会いするかもしれませんわね。よろしくね、クラリスちゃん」
――こんな有名な方と親しいなんて。
レオナールは本当に上級貴族なのだと、心から実感したクラリスだった。
「パーティのお話は伺っておりませんでしたが、お目にかかれましたらまた是非お話を伺わせてください」
「そうですね、是非」
そう言って、セラフィーヌは去っていった。
クラリスは身体中、汗びっしょりだった。
まだ心臓がドキドキしている。
「そ、それでは、こちらが婚約成立の証明書です。両家分二通、お持ちください。……よかったですね、セラフィーヌ様にまで祝福いただけて」
「ありがとう。そうね、嬉しいわ」
実際は嬉しいよりも疲れたという方が勝るクラリスだったが、本音は隠し書類を受け取る。
――レオナール様にも、これは伝えないといけないわね。
クラリスは、馬車で戻ると、レオナールの自室を訪れた。
レオナールは、やはり絵を描いていた。
部屋には他にホーディンクと、侍女が一人。
「失礼します。婚約成立の届出、無事に提出できましたのでご報告に参りました」
「ああ、ありがとう。書類、進んだんだね」
絵を描きながら、顔だけクラリスに向けるレオナール。
ホーディンクはそれを聞いても表情を崩さない。
「これで晴れて婚約者同士ですわね。そうそう、窓口で国王陛下の側室、セラフィーヌ様にお声がけいただきましたわ。レオと呼ばれていらっしゃるのですね」
「えっ、窓口に行ったの? 自分で? それでセラに?」
――セラ。あちらもレオと呼んでいたし、ずいぶん親しいのね。
「え、ええ。自ら出向くのは、よくなかったでしょうか?」
「ううん、ただ、そういう子は珍しいなって思って」
貴族の令嬢が窓口に出向いて書類を出すことはまずないのだろう。レオナールと付き合いのある上級貴族なら尚更だ。クラリスは改めて場違いな事をしすぎないように気をつけようと心に決めた。
「私どもにお任せいただければ一両日中にも提出いたしましたのに、お手間をおかけしました」
ホーディンクが恭しく頭を下げる。
――まったく、白々しい人ね。
「でも、ありがとう。おかげで早く婚約成立できたよ。セラは文官の取りまとめのお役目を持ってるんだよね、まあ名誉職だけど。だから事務窓口にいたんだろう。何か言っていた?」
「いえ、ただ、おめでとうと。レオナール様は良い方だとおっしゃっていましたよ。ああ、それからパーティがもうすぐあるのですか? そういうお話をされていました」
「あれっ、ホーディンクから聞いてない? ごめんごめん、明日の夜、王族や貴族を招待して我が家で夜会を開くんだよ。婚約もそこで発表しようか」
「明日!? 王族!?」
思わず素の大声が出てしまうクラリス。
わざと伝えていなかったのかとホーディンクに鋭い視線を向ける。
「うん、それこそセラも来るんじゃないかな」
――確かに、そうおっしゃっていた。寵姫が来るということは……まさか?
「セラフィーヌ様がいらっしゃるということは、他の王族の方も……」
「うん、国王陛下とエリオット第二王子も」
――やっぱり!!
「ど、どうしましょう、そんな方々のいらっしゃる夜会にふさわしいドレスを持っておりませんわ」
クラリスは、念の為イブニングドレスも持ってきてはいたのだが、そのような格に見合うものではなかった。これほど急にそんな重要な会があるとは想像していなかったのだ。公爵家を甘くみていた。
――お父様の用意したドレスは派手すぎるし、誂えるには時間がなさすぎる。どうしましょう……。
「まだ婚約も成立しておりませんでしたし、そういったご準備の問題もあるだろうと思い、お声がけは控えておりました」
ホーディンクは、悪びれもせずにクラリスへ伝えなかった理由をつける。
「あっ、ごめん、クラリスもそりゃあ準備いるよね。うーん、お母様のドレスがあるから、もし合えばそれを使う?」
――お母様。確か、レオナール様のお母様も数年前に亡くなられていたわよね。
「よろしいのですか? 私などがそのような品を」
「うん、背はそう変わらないし、なんとかなるんじゃない? ホーディンク、エイルを呼んでくれるかな。あの子はお母様の服に詳しいから」
「かしこまりました」
ホーディンクはエイルを呼びに屋敷の奥へ消える。
「よし、クラリス、案内するよ。こっちだよ」
レオナールはそれとは逆の方へ部屋を出ると、クラリスを手招きする。
クラリスがついていくと、レオナールはある部屋の扉を開けた。
部屋一面にドレスが掛けてある。衣装部屋――それにしても壮観であった。
「うわぁ、これ、全部……」
「お母様はお洋服が大好きだったからね。良い色のものも多いでしょう」
「レオナール様、お呼びでしょうか?」
先日、エントランスでクラリスに声をかけてきた侍女、エイルがやってきた。
「ああ、明日の夜会に向けて、クラリスの衣装選びを手伝ってあげて。もし簡単な直しが必要なら手を入れて構わないから」
「かしこまりました」
「じゃあ、僕は戻るね」
「あっ……はい。ご案内いただきありがとうございました」
一緒に選んでくれるものと思っていたので、少し残念がるクラリス。
そんな内心を知ってか知らずか、レオナールは自室の方へ戻って行った。
「あの、よろしくお願いします」
エイルが頭を下げる。きちんと主人、あるいはお客様として扱ってくれる。
「きちんと挨拶するのは初めてだったわね。クラリスです。よろしくね、エイル」
この子なら大丈夫。クラリスはそう確信し、安心して衣装選びを進めた。
「あっ……これ」
どれくらい選んだだろうか。そのドレスの山の中に、クラリスは赤茶色のシックでエレガントなドレスを見つけた。
――エプロンと、同じ色。
「そちらは、少し、大人向けかもしれませんが……」
「そうかもしれないけど……ううん、これにするわ。これがいい!」




