第10話 帳簿
「執務室および記録庫は今より封鎖する! 僕、クラリス、ホーディンク、執務係、出納係のみ中に入れ。そうだな、護衛として衛兵二名も共に来てくれ」
屋敷に戻るなり、レオナールが号令する。
何ごとかと慌ただしくなる屋敷内。
「クラリス、帳簿の確認は君に任せるが、確認内容と内訳は全員にわかるように解説しながら進めてくれないか?」
「かしこまりました、レオナール様。メイにも手伝わせても良いですか?」
「ああ、構わない」
「では、父が男爵になったおよそ半年前から、順に帳簿のうち収入の部を確認します」
クラリスは、何月の何を確認しているのかを話しつつ、一行ずつ指でなぞりながら父からの入金にあたる項目がないか確認していく。
稀に「その他」というような記載になっているものについては、該当の係に確認する。
作業は、それほど長くはかからずに終わった。
「……はい、以上です。該当項目はありませんでした。本当にこれで全部なのですか? 公爵家の収入とは、この程度なのでしょうか」
「まだ他にあるのであれば、出すように」
レオナールが係へ指示する。
「領地の収入はお屋敷の分とは別で管理しておりますが、それも必要ですか?」
「念の為確認しようか。出してくれ」
「うーん、そういう意味ではなく、お屋敷に関する別の分がないのかという意味で申しました。婚約に関する入出金が領地分に紛れるとは思い難いですが、念の為ということであれば、お調べしましょう」
クラリスはそちらも調べていく。
しかし、やはり半年分に該当の項目はない。
「わが家が男爵家になったのがおよそ半年前。父の覚書の日付は二ヶ月前。つまりは父の覚書にあった金貨は、公爵家には入っていないと言えるでしょう」
「……ホーディンク、何か申し開きはあるかい」
「……」
ホーディンクは、終始、無言であった。
帳簿を見るでも、逃げるでも、喚くでもなく、ただ無言であった。
「衛兵、ホーディンクを捕えよ。金貨二百枚の横領である。……ホーディンク、お前とこんな別れ方になるとは、思ってもみなかったよ」
「……旦那様が亡くなり、エリック様が亡くなり……」
ホーディンクが口を開く。
「この家を支えていたのは誰だと……誰だと思っているのですか! 坊ちゃんが生まれる前から見てきたこの家が、傾く様など見たくなかった! 坊ちゃん、貴方が不甲斐ないから、だからこんなことに!」
「確かに僕の不甲斐なさは申し訳ない。だが、それとこれとは別だ。連れていけ」
レオナールの毅然とした対応により、ホーディンクは衛兵に連れて行かれる。
ホーディンクとしても憤りが収まらないのか、連行されながらも何事かを叫んでいた。
「過去の婚約について、そしてレーム卿との癒着関係など、余罪の追及は追って進める。ホーディンクの執事の任は今日付で解き、解雇とする。金貨二百枚は賠償請求をする。帳簿は金庫に入れ、鍵は僕が預かる。衛兵は許可のない者が立ち入らないよう、この部屋を守るように。……今日は、以上としよう」
「レオナール様……」
クラリスは、その背中を見送ることしかできなかった。
長年連れ添った、信頼する老執事に裏切られていたという事実。いくつかの段階を踏んだとはいえ、彼自身の命令で捕らえなければならなかったのだ。彼にとっては大変なショックであっただろうことは想像に難くない。
その原因の一端を、自分が、父が担ってしまった――着服をしたのはホーディンクであることはわかっていても、クラリスは一抹の後ろめたさを感じていた。
「クラリス様、行ってください。あなたが必要ですよ、あれは」
メイが、背中を押す。
「えっ」
「いいから、早く。婚約者でしょ!」
クラリスは、押されるまま、レオナールの自室前に来た。
数秒の逡巡の後、意を決してノックする。
返事はない。
「クラリスです、レオナール様」
「……どうぞ」
「失礼します」
クラリスは中に入る。
いつもレオナールが座っている絵を描くための椅子を見てしまうが、今日はそこにはいなかった。
見回すと、ベッドの上に横になっているレオナールを見つける。
「……」
かけるべき声が見当たらず、クラリスはベッドの縁に腰掛ける。
「……爺やは、何事においてもまず公爵家のことを考えてくれる人だったんだよ」
レオナールがぽつり、ぽつりと語り始める。
「お父様も信頼していたし、お母様だって信頼していた。兄上だって信頼していたんだ」
「もちろん、僕だってさ。セラは、ちょっと苦手だったみたいだけどね。上司だったから」
それは、ここ二十数年における、アーヴィング公爵家の歴史だった。アーヴィング公爵家の一門がレオナールのみとなってしまった今、つまりは、この家中においてその歴史をレオナールと分かち合えるのは、ホーディンクだけだったのだ。
――過去を分かち合うことは、私にはできない。だから。
クラリスは、レオナールの右手を握る。
「未来を、描きましょう」
「……未来?」
「過去を、公爵家の歴史を軽んじるわけではありませんが、過ぎたことを変えることはかないませんわ。ですから、未来を描きませんか。私たち二人で、これからの公爵家を」
「未来、か。はは、絵ばかり描いていたから想像がつかないや。ダメだね、僕は」
「これから描けば良いではありませんか。絵で結構ではないですか」
「えっ?」
「未来のアーヴィング家を、絵に描けば良いのです。私がそれを形作りましょう。良い絵を描くために、泊まりがけで川辺まで出かけられたではありませんか。どう描けば良いかわからない部分は、調べて、聞いて、悩めば良いのです。私だってわからないことだらけ。だから、一緒に悩んで、一緒に描きましょう」
「クラリス……」
起き上がったレオナールが、クラリスを後ろから抱きしめる。
「少しだけ、こうさせてほしい」
「……はい」
クラリスは、レオナールの手に自らの手を重ねた。
「ありがとう、クラリス。……ありがとう」
レオナールは、声を殺して泣いた。
心の底から傷ついたときの痛み。それは公爵であろうと、殿方であろうと、軽くなるものではない。クラリスは今はただ、この孤独な青年のその痛みを少しでも受け止めたいと願った。
*
翌日。
あの後はきちんと部屋に戻り、何があったというわけではない。
「おはよう、クラリス」
「お、おはようございます、レオナール様……」
しかし、一夜明け冷静になってみると、クラリスは大胆なことをしたと顔が赤くなってしまう。
――公爵閣下のベッドに自ら座って手を握るなど、何ということを……。
「昨日はごめんね、お陰で元気が出たよ」
「それは良かったです。大変落ち込まれていましたから」
「はは。君の言う通り、未来を描かなくちゃね。これからどう実務を回すかを考えなければならないな」
「それでしたら……差し支えなければ、私に帳簿の確認を続けるご許可を頂けませんか?」
「えっ? いや、願ったりだけど、良いのかい?」
クラリスは、実はホーディンクの捨て台詞が気になっていた。
――家が傾くさまを見たくない、と言っていたわよね。公爵家が傾く? そんなことがあり得るのかしら?
だから、帳簿の点検を真っ先にすべきだと睨んだのだった。
「ええ。私が不正を働かない証明に、レオナール様が見ている前で行いましょうか」
「うーん……そうだね。僕は君がそんなことはしないと思っているけれど、家の者が納得しない可能性はあるもんね」
「レオナール様、それが良くないのですわ。会ってまだ十日やそこらの女を信頼しすぎですわ。もちろんそんなことはしませんけど!」
メイも連れ、朝から三人で執務室へ。
今度は三年分の帳簿を出してもらい、確認を進めていく。
「それは、何を見ているんだい?」
「まずは、記載がおかしくないか、入りと出のバランスを見ています」
ところどころでレオナールが興味深そうに質問をしてくる。
クラリスは、山のような帳簿を眺め、時折メモを取り、作業を進めていく。
――おかしい。こんなもの、なの?
辻褄は合う。
しかし、規模が合わないように思える。
「レオナール様、公爵家の領地はいかほどの広さですか」
「広さ? うーん、アーヴィング地方ってあるだろう?」
この国の東南の一角を占める地域だ。
「はい」
「あれが領地だよ」
「ええっ!?」
クラリスは、地域の名称がアーヴィングで、同名の家名なのだと思っていた。
実際は逆だった。アーヴィングという家が治める土地だから、アーヴィング地方だったのだ。
「あれが、全部……」
「ああ、もちろん派閥の貴族や、代官に治めさせている土地がほとんどだよ。直轄領はその二割くらいかな。いいところだよ、穀倉地帯で、緑豊かで」
それなら、クラリスの印象とも重なる。ただ、二割でも相当に広大な土地であった。
「しかし、それでは……この程度の支出で回るものなのか……収支が見合ってはいるのですが、規模がかなり小さいように見えるのですよ」
「どれどれ? とはいえ、僕は帳簿のことはほとんどわからないのだけれど……」
「この辺りです」
クラリスが気になるページを開き、レオナールに見せる。
「おっ? これは!」
「えっ、何かわかりましたか?」
「ほら、ここの黒インク! これ、今年出た新作の黒なんだ。滲んでも縁が赤や青にならないという優れものなんだ」
――そこ!? 帳簿を見てインクに着目するなんて! えっ、でも?
さすがと言うべきか、独特の視点を発揮するレオナール。
しかしクラリスはその言葉にある疑問を覚え、帳簿をひっくり返す。
「レオナール様、このインク、今年の新作とおっしゃいましたよね」
「うん、画期的なインクなんだよ、これ」
「……この帳簿、三年前のものですわ。清書転記でもない……記載日も三年前ですわね」
「えっ?」
――帳簿の、改ざん?
「レオナール様、すぐに帳簿に関連する者の身柄を押さえてください。もしかしたら……大変な事態かもしれません」




