第14章:闇の中に差す光(ライト・ビトウィーン・シャドウズ)――後編
ラブガールは自らのデータベースの深淵へと潜り込み、答えを求めて記憶の残滓を捜索した。数百万のデータ・ログを遡ったその果てに、彼女はコアの最深部に厳重に保管されていた、ある一つの記録にたどり着いた。
――十五年前。
当時の彼女はまだ未完成の試作機であり、分厚い眼鏡をかけた禿頭の老人の庇護下に置かれた、ただの無機質なロボットだった。
老人が手元のお猪口から静かに日本酒を飲み干したのを見届け、小さなラブガールは彼の戦闘パフォーマンスを分析したログを、淡々と口にした。
「博士、戦闘モジュールの最適化が完了しました。従来に比べ、効率が20パーセント向上しています」
老人は、心底愛おしそうに、満足げな笑みを浮かべた。
「素晴らしい。時間はかかるじゃろうが、お前はきっと、最高のヒーローになれるよ」
「ですが、博士……これでもまだ、私は他の人間たちの基準には到底及びません」彼女は抑揚のない声で返した。
「ハハハ、そんなことは気にするな。お前はまだ開発の初期段階じゃし、その機体にもワシが改良すべき点が山ほど残っておるからな」
「あまり無理をしないでください」小さなロボットは静かに観察した。
「そう見えるか? まぁ、この歳じゃからな、身体が万全とは言えんが……それでも、ワシは心からこれをやりたいんじゃよ」
「……何故ですか?」
「ワシ自身のためじゃよ。自分が『良い父親』になれるのだと、自分自身に証明したいんじゃ」老人は彼女のレンズ(瞳)を真っ正面から見つめ、優しく語りかけた。「じゃがな、それと同じように……お前にも、いつか自分自身のために行動できるようになってほしいんじゃ」
「……自分自身、のために?」
「お前の開発コードは『ラブガール』。それは、お前が『心』を持っているという証明じゃ。お前が『愛』というものを理解していくたびに、お前はどこまでも強くなれる」
「博士、あなたは何かを愛しているのですか?」
「もちろんだとも。ワシはこの家を愛し、酒を愛し、この人生を愛しておる……。そしてお前を愛し、自分自身のことも愛しておるよ」
「……理解できません。何かを愛するとは、どのようなプログラミングなのですか?」
「焦ることはない。時が来れば、お前にも分かる日が必ず来る。ワシが自分のためにこれを作ったように、お前もいつか、自分の意志で何かを成し遂げる。ワシはその姿を、心から誇りに思うじゃろうな」
数十トンの瓦礫の底、冷たい暗黒の中でその光景を思い出した瞬間――。
彼女のメインプロセッサは、すべての迷いを消し去る『絶対的な解』を導き出した。
(……私は、私自身のために。私の意志で、ここに立っている)
突如、瓦礫の山が内側から爆散し、コンクリートの破片を巻き上げながらラブガールが猛然と姿を現した。アリスティアは純粋な生存本能に従って後退し、彼女が飛び出しざまに放ったレーザーを紙一重で回避した。彼女はそのまま虚空へと滞空し、その双眸のセンサーをエネルギッシュで鮮烈な桃色の輝きで満たしていた。
「私は、私自身のために戦っている」彼女の電子音声には、今や奇妙なほどの温かみが宿っていた。「――なぜなら、私は自分自身を愛することを学んだから。……でも、あなたは? あなたは一体、何のために戦っているの?」
アリスティアは体勢を立て直すと、冷徹な気品を纏わせて立ち上がった。
「単純な話だ。私は、一度やると決めたことは完璧に成し遂げねば気が済まない、それだけのことだ」
それ以上の言葉は不要だった。二人は放棄された都市の瓦礫の上で、再び死闘を再開した。激突する桃色のエネルギーと漆黒の影が、シミュレーションの空を破壊的な光と闇の乱舞で激しく照らし出していく。
電光石火の挙動で、アリスティアが全方位六ヶ所から同時に襲い掛かった。しかし、演算速度を極限まで引き上げたラブガールは、即座に新兵器を展開する。彼女の背面から複数の浮遊型ガンビット(自律砲台)が撃ち出され、全自動の防衛網として機能し、アリスティアの影の飛び道具をことごとく相殺したのだ。
アリスティアは強引に間合いを詰め、彼女の胸元へ壊滅的な一撃を叩き込んだ。しかし、ラブガールの背部推進器が瞬時に逆噴射され、衝撃を完全に吸収。そのまま凄まじい推進力で前進へと転じ、アリスティアの顔面にストレートを直撃させた。
鈍い破砕音が響き、黒髪の少年の顔から鮮血が飛び散る。アリスティアは追撃の決定打を浴びる寸前、辛うじて空間転移でその場を脱出した。
ラブガールは熱源感知によって、ほぼ同時に彼の位置を特定した。彼女の背後に立つビルの屋上だ。アリスティアは、その四分の一の素顔を隠すことが絶対の最優先事項であるかのように、焦燥を滲ませて仮面の位置を直した。
彼は極低温の計算を孕んだ声で、吐き捨てるように言った。
「……急激に出力が上昇し、そのコアの輝きが増したな。ロボット工学の知識は持ち合わせていないが、エネルギーの出力限界を解除したか、内部機構の再調整でも行ったか」
「私は『愛』という概念を一つ理解するたびに、進化するように設計されている」彼女は応じた。「それは比喩でも、論理的なバグでもない」
「……ふん、馬鹿馬鹿しい。愛など反吐が出る。自分以外の他人のために心を砕くことに、一体何の意味がある?」
「そこに論理的な意味なんて必要ない。ただ、感じるもの」ラブガールは真っ直ぐに彼を見据えた。「それが本物なら、自分の世界がどう変わるか、どれほど幸せになれるか、そして自分が持つものをどれほど愛おしく思えるか、自然と理解できるはず」
アリスティアは明白に苛立ち、激しく奥歯を噛み締めた。
「貴様……。そこまで愛とやらが強固なものだと言うのなら、――今すぐここで証明してみせろ!!」
ビルの全域からあらゆる闇の残滓を吸い上げ、アリスティアの周囲に数百本もの「漆黒の影の矢」が具現化し、宙に浮遊した。ラブガールは一歩も引かぬ絶対の戦闘態勢をとり、この最大のリスクを伴う局面を打破すべく、すべての自律砲台とドローンを限界駆動させた。
射撃の命令を下す直前、アリスティアの動きが一瞬だけ止まった。彼の瞳の奥を、迷いという名の不確かな閃光がよぎる。しかし、彼は即座に眉根を寄せ、数百本の影の矢を一斉に大質量放射んだ。重苦しい着弾の衝撃が周囲のすべてを徹底的に破壊し、戦場に不可視の分厚い土煙と瓦礫のカーテンを巻き上げた。
アリスティアは激しく肩を荒く上下させながら、眼下の破壊の痕跡を凝視した。だが次の瞬間、彼の表情は苛立ちの呻きへと変わる――煙の向こうに、未だに毅然と立ち尽くすラブガールのシルエットがあったからだ。彼女は自律砲台からエネルギーのネットを放出し、中心にあるドローンへと接続。幾何学的で完璧な『ハートの形』をした防壁を展開し、猛攻を完全に防ぎ切っていた。
息つく暇も与えず、ラブガールはシールドの角度を即座に反転。展開していたエネルギーを極限まで凝縮させると、それを光のブーメランとして力任せに投擲した。白熱の刃がアリスティアの立っていたビルの構造ごと一文字に切り裂き、巨大な建築物を瞬時に完全崩壊へと追い込んだ。
審査員室では、レイ・ツキシマが物憂げな表情でモニターを見つめていた。
「……『愛』について深く考えるなんて、少し妙な気分ね。死と殺し屋、そして獰猛な野獣が溢れ返るこの世界において、そんな概念は私たちには到底手が届かない、贅沢品のようなものだから」
レイは、隣のキアラン・アッシュブレードが額に手を当て、自らの思考の深淵に沈み込んでいることに気づいた。ジファンもまた、同僚のその尋常ではない緊張感に視線を向ける。
「どうした、キアラン? 大丈夫か?」師としての純粋な懸念を込めて、ジファンが問いかけた。
キアラン・アッシュブレードは、辛うじて、だが瞳の奥までは届かない作り笑いを浮かべて見せた。
「あぁ、あぁ……心配ないさ」
しかし、キアランの精神はすでに審査員室にはなかった。彼の意識は、遥か数年前の――決して消去しきれない、ある「過去の記憶」の中を彷徨っていた。
あの日、キアランは重要なデートのために身支度を整えていた。自身の髪色と見事に調和する桃色のネクタイを締め、妖精の羽が収まるように誂えられた特注のジャケットに袖を通す。外出する直前、彼は鏡の前でもう一度だけ自分を見つめ、跳ねた前髪を直すと、無敵の自信に満ちた笑みで己の鏡像にウィンクをして見せた。
彼が赴いたのは、深海に沈む超高級レストランだった。広大なガラス窓の向こうには、漆黒の深海を泳ぐ、蛍光グリーンの縞模様を持つ巨大なシロナガスクジラたちの姿が、幽かに浮かび上がっていた。彼の姿を認めるなり、受付の男は明らかに興奮を滲ませて声を上げた。
「アッシュブレード様! 本当に、本物のアッシュブレード様なんですね! 先週は私の家族を救っていただき、本当にありがとうございました!」
キアランはいつもの傲慢さを崩さなかったが、その声には確かな優しさが含まれていた。
「気にするな、ヒーローとしての当然の職務を果たしたまでさ。それより、中にかわいい女の子が俺を待たせているんだ。そろそろ行かないとな」
「あぁ、もちろんです! メディアの言う通り、あなたは私が知る中で最高の伊達男で、最もハンサムな男ですからね。中のお嬢さんも、きっとあなたに首ったけですよ。お引き止めしてすみません、どうぞ中へ!」
「ありがとよ」
キアランは受付のチップ用の瓶に、笑顔と共に金貨を一枚軽快に投げ入れ、ホールへと足を踏み入れた。そして、そこに座る彼女の姿を捉えた。――セレネ・ソーン。白に近いほどに淡い美しき金髪と、滑らかで白い磁器のような肌を持つ少女。キアランの目には、彼女がレストランのいかなる絢爛な照明よりも眩しく輝いて見えた。
彼はテーブルの席につくと、自分を格好良く見せようと、気取った笑みを浮かべた。
「いい眺め(ビュー)だな」
セレネは、どこか距離を置いた、静かな声で応じた。
「えぇ。窓の外に見えるものは、少し悪趣味なほどに贅沢ね」
「あぁ、確かに。だけど、俺が言ったのは君のことさ」
「え……私は……」
キアランは小さく、軽快に笑った。
「からかいすぎたな、悪かった。まずは注文を決めよう。ここのロブスターは古代文明のレシピを再現しているらしいんだ。ずっと気になっていてね」
「キアラン」
「ん? どうしたんだ、セレネ?」
「私、WDAS(世界防衛使節団)を辞めるわ」
キアランの顔から、笑みがピタリと凍りついた。
「……何だって? なぜだ?」
「これが、私の本当にやるべきことだとは思えないの。誰かを助けるのは好きだけど、それを『仕事』にしたくない。私は、私のやり方で人々を救いたいの」
「だが、組織にいたままだって、俺たちなら……」
「いいえ、キアラン。私たちは結局、命令に従い続けるだけ。いつだってそうよ。それに……私の弟が……」
「あいつがどうしたんだ?」
「全寮制の学校を退学処分になったの」
「あいつなら、どうせまた何かくだらないトラブルでも起こしたんだろ」キアランはさも大したことではないように、鼻で笑った。
「能力に、目覚めたのよ」
「それがどうした? 君と同じような光の能力だろ?」
「違うわ。その真逆。……私が光を操るように、アリスティアは『闇』を統べる。どうすればいいか分からないの……あの子の力はあまりにも強大すぎて、何を引き起こすか、私、怖くてたまらないのよ」
「あいつはまだ十五歳だぞ、セレネ。最悪のケースになったとしても、一体何ができるって言うんだ?」キアランは水を一杯口に含みながら、宥めるように言った。
「あの子……独自の異能境界を展開したの」
直後、キアランの手からグラスが滑り落ち、床の上で鋭い音を立てて粉々に砕け散った。
「……何だと?」
「不完全な展開だったから、あの子自身も傷ついたわ。あの子の左目が……」セレネは悲痛に視線を落とした。「思い知らされたの。両親に捨てられてから、私がどれほどあの子を放置してしまっていたか。……だから、キアラン。私たち、もう終わりにしましょう」
「……冗談だろ、おい?」彼女はただ、静かに首を横に振った。「だが、俺は……俺は納得なんて……。……あぁ、そうかよ。好きにすればいいさ」
キアランは深く頭を垂れた。失望と、生まれて初めて味わう胸を抉るような痛みに耐えながら。
――それは、彼の傲慢で無敵な人生において、誰かに「捨てられた」最初の瞬間だった。




