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第92話 見えない刺客と、風の防壁


 夏の夜、拠点に新たな「侵入者」が現れた。


 それは、これまで戦ってきたどんな相手よりも小さく、そして、どんな脅威よりも執拗だった。


「……ゆう様、先ほどから、わたくしの聴覚センサーに正体不明の高周波ノイズが混入しております。……不快です。非常に、不快ですわ」


 焚き火のそばで、リアが眉間に深い皺を寄せていた。


 彼女の銀髪が、苛立ちを示すように微かに逆立っている。


「ああ、それ、たぶん『蚊』だよ、リア。ほら、そこにも飛んでる」


 僕が指差した先、焚き火の光を避けるように、小さな影が「プゥーン」と音を立ててリアの耳元を通り過ぎた。


「……カ? これが、有機生命体の活動を阻害する要因なのですか? 演算によれば、この個体の質量はわたくしの指先一つ分にも満たないはず。それなのに、この……意識の外部から直接、思考の並列処理を乱されるような感覚は一体……!」


 リアは驚愕に目を見開いていた。


 彼女にとって、物理的な攻撃は予測し、対処できるものだ。けれど、この「音」と「痒み」という、逃げ場のない神経への攻撃は、初めて体験する種類の『脅威』だったのだ。


「ゆう様! また来ましたわ! 今度は右肩に……っ、逃げられました。……くっ、この小さな相手に、わたくしの捕捉能力が追いつかないなんて!」


 必死に空を叩くリア。その姿は、いつもの冷静な彼女からは想像もつかないほど必死で……そして少しだけ微笑ましかった。


「よし、リア。なら、日本の知恵を貸してあげるよ。『蚊取り線香』っていう、虫が嫌いな匂いで追い払う方法があるんだ。道具は、これを使おう」


 僕は、数日前に硬い河原の石を根気よく削り出して作った、自製の石の乳鉢を取り出した。まだ表面には削り跡が残っているけれど、重厚で使い勝手は悪くない。


 そこに、森で見つけてきたヨモギに似た野草と、乾燥させたハーブを放り込む。

 

「……こうして、ゴリゴリと粉にするんだ。リアもやってみる?」


「……はい。この『カ』への怒りを、すべてこの粉砕作業に叩き込みますわ」


 リアは凄まじい手際で石の乳棒を回し、ハーブを微細な粉へと変えていった。それに煮詰めた樹液を混ぜ、細長い棒状に練り上げていく。


「……これを燃やせば、煙と一緒に虫が嫌がる成分が広がる。名付けて『異世界版・蚊取り線香』だ」


「……素晴らしいですわ、ゆう様。化学的、かつ物理的な面制圧……。これなら確実に奴らを排除できるはずです」


 期待を込めて、僕たちはその手作りの線香に火をつけた。


 拠点のなかに、独特の、どこか懐かしい青臭い煙が立ち込める。


 ……だが。


 十分後。


「……プゥーン」


「…………」


「…………また、来たね」


「……はい。……さらに、仲間を連れてきたようですわね」


 異世界の蚊は、想像以上に図太かった。


 石の乳鉢で魂を込めて作った線香の煙など、まるでお香程度にしか思っていないようだ。煙の中から平然と現れた蚊が、リアの白い手首に止まる。


「……効果、限定的。いえ、ほぼ無意味ですわ。日本の知恵をもってしても、この世界の害虫には通用しないのですか……」


 リアは、かつてないほどの敗北感をその肩に滲ませていた。


「……もう、限界ですわ」


 リアが、すっと立ち上がった。


 その瞳には、冷静な、けれど絶対的な「拒絶」の光が宿っている。


「風の精霊さん……。少し、お力をお貸しいただけますか?」


 彼女が静かに呼びかけると、拠点の隙間から、心地よい夜風が入り込んできた。


 だが、その風はただ吹き抜けるのではなく、まるで生き物のように拠点の壁に沿って旋回し始めた。


「……風のカーテン?」


「はい。家の周囲に絶え間ない気流の壁を作り、質量一グラム以下の飛行物体を物理的に弾き飛ばすよう、精霊さんにお願いしました。……これで、物理的な『絶対防壁』の完成ですわ」


 見れば、拠点の入り口や窓に、目に見えないほど薄く、けれど強固な風の膜が張られている。


 外側では、侵入を試みた蚊たちが、突風に煽られて木の葉のように吹き飛ばされていた。


「……最初から、そうすべきでしたわ。……これでもう、わたくしの演算は邪魔されません」


 リアは安堵のため息をつき、ようやく椅子に深く腰を下ろした。


 拠点のなかは、風の精霊がもたらした涼しさと、静寂に包まれている。


 外では、今も羽虫たちが風の壁に阻まれ、無念の音を立てている。


 それを横目に、リアは少しだけ誇らしげに、僕の淹れたお茶に口をつけた。


 そして、ふっと表情を緩めると、僕の方をじっと見つめて、悪戯っぽく、けれど深い熱を帯びた声で囁いた。


「……これで、ようやく。誰にも邪魔されずに、貴方の鼓動だけを数えていられますわね、ゆう様」


 ランプの火が微かに揺れ、リアの銀髪が夜の闇に白く浮かび上がる。


 風の防壁に守られた密室で、僕たちは、外の世界を忘れるほどの深い静寂の中へと寄り添っていった。

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