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第79話 春のなごり、銀の角の落とし物


 泉のほとりに立つと、風の感触が変わったことに気づく。


 肌を刺すような冷たさはもうどこにもなく、代わりに、芽吹いたばかりの若い葉の匂いが、鼻先をくすぐる。

 

「……ゆう様。春が、もうすぐ行こうとしていますわ」

 

 リアに促され、僕は冬の間中お世話になった厚手の布を泉へと持ち出した。最後の大掃除だ。


 泉に足をつけると、水は驚くほど優しかった。かつて、指先が凍え、感覚を失いながら魚を捕っていたあの冬が嘘のようだ。

 

「……リア、水が笑ってるみたいだよ。もう、冬を怖がらなくていいんだね」

 

 バシャバシャと水を跳ね上げ、煤の染み付いた布を洗い流す。その時だった。


 対岸の茂みが揺れ、あの雄鹿が姿を現した。


 銀色に光る、あの立派な角を持つ『森の長』だ。彼は悠然とした足取りで水辺まで来ると、僕たちの様子をじっと見つめた。

 

「……あ、地主さんだ。こんにちは」

 

 僕が声をかけると、雄鹿は返事をする代わりに、近くにある太い木の幹に、その自慢の角をぐい、と力強くこすりつけた。


 嫌な予感がして息を呑んだ瞬間――。


 カラン、と乾いた音がして、片方の角が地面に落ちた。

 続いてもう一度、首を振るようにして反対側をこすりつけると、残る一本もまた、呆気なく土の上に転がった。

 

「えっ……角が、折れた……!?」

 

 僕が慌てて駆け寄ろうとすると、雄鹿は角の取れた頭を軽く振り、一度だけ僕を深く一瞥した。


 そこには悲しみも痛みもなく、ただ「用は済んだ」と言わんばかりの、清々しい威厳があった。


 彼はそのまま、軽やかな足取りで森の奥へと去っていく。

 

「……ゆう様、見てください。折れたのではありませんわ。これは『落角』……彼が冬を越え、新しい季節へ向かうための儀式ですの」

 

 リアが静かに、落ちた角を拾い上げた。


 ずっしりと重く、根元は驚くほど硬い。


「……これを、僕たちにくれたのかな」

 

「ええ。きっと『春になったお祝い』ですわ。……これだけの密度がある角なら、鉄のナイフの新しい『柄』や、もっと鋭い道具の素材になりますわよ。……あの方は、私たちの成長を見届けてくださったのですわね」


 僕はまじまじと角を見つめ、それから去っていった雄鹿の、少し寂しくなった頭部を思い出した。

 

「……でも、あんなに立派だったのに。男の象徴が、あんなにあっさりと、ぽろりと落ちちゃうなんて……」

 

 なんだか、自分の一部を失ったような、妙な喪失感を覚えて呟くと、隣でリアが真剣な顔で首を傾げた。

 

「……そうですわね。ゆう様。人間の男性の象徴が、あんな風に『ぽろり』と落ちてしまったら……それはもう、種としての存続に関わる大問題ですわ。……わたくしの修復プログラムでも、それは対応しきれるかどうか……」

 

「わっ、ちょ、ちょっと! 何を想像してるんだよ、リア!」

 

 僕は顔が熱くなるのを感じて、慌てて彼女から視線を逸らした。


 リアは、僕の狼狽ぶりを「不快なエラー」か何かと勘違いしたのか、さらに真面目なトーンで続ける。


 視線を僕の下の方にやりながら、

 

「……失礼いたしました。ですが、角は毎年生え変わるものです。……ゆう様も、そんなに不安そうな顔をなさらないでくださいな。……あの方のように、また新しく、より立派なものが育ちますわ」

 

「だから! 僕のは落ちないし、生え変わったりもしないから!」

 

「……そうですの? 人体の構造というのは、実に不思議で、時に不便ですわね……」

 

 リアは、本気で残念そうに溜息を吐いた。


 その真っ直ぐな瞳に見つめられると、これ以上説明するのも馬鹿馬鹿しくなって、僕は「……もういいよ、洗濯の続きをしよう」と、逃げるように泉へと戻った。

 

 洗い立ての布を岩場に広げると、萌黄色の新緑の中で、拾った角が鈍い光を放っていた。

 

「……最高の素材だね、リア。今夜はこれを見ながら、あの子が届けてくれたウサギで祝杯をあげよう」

 

「はい。……次の季節も、きっと素晴らしいものになりますわ、ゆう様。……ゆう様の『象徴』も、健やかであることを祈っておりますわね」

 

「……もう、黙ってて」

 

 僕は腰のナイフを一度撫で、輝く泉の水を掬って顔を洗った。


 冷たい水が、火照った頬に心地よかった。


 春が終わる。


 新しい季節は、どうやら冬よりも少しだけ、騒がしくなりそうだった。

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