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第78話 桜の下の白き粒、春の記憶を塩に込めて


 聖域の片隅に、一本だけ場違いなほど見事な大樹がある。

 

 元の世界で見た桜にそっくりな、淡い桃色の花を枝いっぱいに咲かせたその木は、今がちょうど満開だった。風が吹くたびに、薄い花びらが雪のように舞い降り、拠点の周りを彩っている。

 

「……綺麗だね、リア」

 

「ええ。厳しい冬を越えた後のこの色は、何よりの報酬ですわ」

 

 僕たちはその木の下に、先日手に入れたばかりの『岩塩』を広げていた。


 まだ岩の塊だったものを石で砕き、丁寧に磨り潰して作った、透き通るような白い粒。

 

「さて、ゆう様。見惚れてばかりもいられませんわよ。この春の恵みを、長く楽しむために……『塩漬け』の作業に入りましょう」

 

 リアが指差したのは、午前中に二人で摘んできたばかりの山菜や野草の山だ。

 独特の苦味がある若芽や、香りの強い野草。これらを新鮮なうちに塩で揉み、土器の中に隙間なく詰めていく。

 

「……秋にドングリや栗を必死に集めていた頃を思い出すね。あの時は土を掘って隠すのが精一杯だったけど」

 

「ふふ、あの頃のゆう様は、泥だらけでまるで子熊のようでしたわ。……ですが、今はこうして『塩』という魔法の粉を持っています。これで、春の香りを閉じ込めることができるのですわ」

 

 僕が山菜を敷き詰め、その上にリアが惜しみなく塩を振っていく。


 そのとき、一際強い風が吹き抜け、満開の花びらがバラバラと僕たちの手元に舞い落ちた。

 

「あー……塩の中に花びらが入っちゃったよ」

 

「あら……。でも、これも風流ではありませんか? 『桜塩の漬物』。きっと素敵な香りが移りますわ」

 

 リアは楽しそうに、花びらごと山菜を押し込んでいく。

 

 魚醤を仕込むための塩は、まだ他にもたくさんある。


 けれど、こうして二人で花を愛でながら、指先を塩で白くして作業する時間は、何物にも代えがたい「生活」の匂いがした。

 

 ふと見ると、一頭の鹿が遠くからこちらを覗き込んでいる。


 かつて干されていた栗を、我慢できずにつまみ食いをしたあの子だろうか。


 鹿は、僕たちの作業を邪魔することなく、ただ花びらを一口食むと、満足そうに森の奥へと消えていった。

 

「……鹿さんたちも、春を祝っているみたいだね」

 

「ええ。……さあ、ゆう様。最後の一樽ですわ。これが終わったら、少しだけ贅沢をして、一番綺麗な花の下でお茶にいたしましょうか」

 

 リアが差し出した手には、塩の粒と、一枚の桃色の花びらが張り付いていた。

 

 僕たちは再び笑い合い、春の香りを土樽の中へと封じ込めた。


 冬を越した僕たちの「家」に、また新しい記憶が積み重なっていく。

 

「……さて、ゆう様。お約束の『お茶の時間』にいたしましょうか。……といっても、わたくしたちの知恵で絞り出した『大地の滴』ですけれど」

 

 リアが火の傍から持ってきたのは、木のカップに注がれた琥珀色の温かな飲み物だった。湯気と共に、ナッツを焙ったような香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

 

「……これ、さっき掘ったたんぽぽの根っこだよね。もう飲めるの?」

 

「ええ。細かく刻んで、じっくりと火を通してみましたの。元の世界にあった『コーヒー』というものに、香りが近いかと思いまして」

 

 僕は熱いカップを両手で包み、一口啜った。

 舌の上に広がるほのかな苦味。けれどその後に、土が持つ力強い甘みが追いかけてくる。

 

「……うわ、すごい。これ、本当にお茶だ。香ばしくて、なんだかホッとする味だよ」

 

「ふふ、お口に合いましたか? 知識としては知っておりましたが、こうして実体として味わうと……知識が温度を持ったような不思議な心地がいたしますわ」

 

 僕はカップの中を覗き込み、そして周囲の草原を見渡した。そこには、黄色い太陽のようなたんぽぽが、数え切れないほど顔を出している。

 

「……これ、まだまだたくさん生えてるよね。これだけあれば、毎日飲めるんじゃない?」

 

「ええ。今の時期なら掘れば掘るだけ手に入りますわ。保存食用に乾燥させておけば、雨の日でも楽しめますわね」

 

「よし、じゃあ塩漬けが終わったら、もうひと踏ん張りして根っこを集めようよ! 魚醤の仕込みの合間の楽しみが増えるし」

 

「あら、やる気満々ですわね。……承知いたしましたわ。では、わたくしは焙煎の担当を。ゆう様は、腰を痛めない程度にしっかり掘ってきてくださいまし?」

 

 リアは楽しそうに目を細め、僕のカップに最後の一滴を注ぎ足した。

 

 特別な茶葉なんてなくても、足元を見れば『楽しみ』はいくらでも転がっている。


 僕たちは再び笑い合い、春の香ばしい一杯を飲み干すと、次なる「収穫」に向けて勢いよく立ち上がった。

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