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第72話:濁る水音、歪んだ命


 それを告げたのは、泉の精霊だった。


 夕方。作業を終え、泉のそばで道具を洗っていたとき、水面が静かに揺れた。


『少し、頼みごとがありますわ』


 声は柔らかい。だが、この前のような茶目っ気はない。

 水の中から現れた精霊の表情は、どこか険しい。


『南の方で、精霊の流れが乱れています。一柱のウンディーネが、正気を失いかけていますわ』


 その言葉に、周囲の空気が一瞬で張り詰めた気がした。


『原因は、この聖域の外れにあります。……あなた方なら、対処できるでしょう』


 それは頼みごとというより、深い信頼に近い響きだった。リアは迷わず、深く頭を下げた。


「……わかりましたわ。すぐに向かいましょう」


「行こう、リア」


 僕も頷き、二人は住み慣れた泉を離れ、未知の南へと足を踏み出した。


「……おかしいですわ」


 しばらく進んだところで、リアが小さく眉を寄せた。


「なにが?」


「水の流れが乱れていますの。精霊の反応が、濁っていますわ。……感情が、歪んでいますの」


 その言葉に、嫌な予感が背中を走った。これまで出会ってきた精霊たちは、皆穏やかで人懐っこかった。それとは明らかに違う『何か』が先にいる。


 小川を辿り、幾分か進んだ木々が開けた先に、その小さな滝はあった。


「……っ」


 滝壺の水の色がおかしかった。澄んだ青ではなく、どこか黒ずんでいる。

 水面は不規則に波打ち、逃げ場のない苦しみに悶えているようだった。


「……います!」


 リアが低く叫んだ瞬間、水が激しく跳ね上がった。

 形を成し、現れたのはウンディーネ。


 だが、その輪郭はドロドロと歪み、色は淀み、焦点の合わない視線からは狂気が溢れていた。


 鋭く弾けた水の刃が、僕の足元を掠める。


「リア!」


「大丈夫です! 落ち着いてくださいまし!」


 リアが前に出て、両手を広げて魔力を流す。けれど、狂ったウンディーネは応じない。滝壺全体がざわめき、荒れ狂う。


「……原因が別にあります!この精霊は、汚染されています!ゆう様! 滝壺の中を調べてくださいまし!」


「わかった!」


 僕は滝壺の縁へ駆け寄った。冷たく、濁った水。

 目を凝らす。

 底に、沈殿する不気味な黒い塊がある!


「……あれか!」


 息を止め、水の中に飛び込み、手を伸ばしてそれを掴むと、一気に引き上げた。


 手の中に残る、嫌な感触。それは――一羽の鳥の死体だった。


 けれど、普通じゃない。羽はどす黒く変色し、その額には、本来あるはずのない小さな『角』が生えていた。


「……カラス? いや、違う」


 僕がそれを岸へ投げ捨てた瞬間、ウンディーネが甲高い悲鳴を上げた。狂気と苦痛が混ざり合った、耳を劈くような声。


「……これが原因ですわ! 今です!」


 リアが別の方向へ手を伸ばすと、周囲の清らかな水が一斉に動き出し、滝壺を激しく洗い流した。


 黒ずみが薄れ、狂っていたウンディーネは力なくその場に崩れ落ちると、静かに水へと溶けて消えていった。


 やがて、滝壺は元の澄んだ色を取り戻した。


 僕は地面に転がる、あの角の生えた黒い鳥を見下ろした。

 

「……まるで、ゲームに出てくる魔物みたいだ」


「……はい。この世界には、存在しますの」

 

 リアの声は、いつもよりずっと低かった。詳しい説明はなかったけれど、それだけで十分だった。


 精霊が狂い、水が汚れ、命が歪む。


 世界は優しいだけではない。その厳然たる事実を、僕たちは初めて、突きつけられるように知った。


 僕は、足元に転がった黒い死骸を見下ろした。


 動かなくなったその体からは、いまだに周囲の空気を腐らせるような、嫌な気配が漂っている。


 置いておくわけにはいかない。存在するだけで、何かが侵食されていくような悪い予感がした。


「……焼こう。リア」


「……ええ。それが賢明ですわ」


 リアの呼びかけに応じ、炉の中にいたはずのサラマンダーが、紅蓮の尾を引いて這い出してきた。


 リアが死骸を指差すと、トカゲのような精霊は一瞬だけ躊躇うように動きを止め、それから一気に火力を上げた。


 ――ボォッ


 春の夕闇を切り裂くような、真っ赤な炎が死骸を包む。


 通常の火ではありえないほどの高温。角の生えた鳥の体は、羽の一枚、骨の一片さえ残さず、瞬く間に灰へと変わった。


 風が吹き、その灰を遠くへと運び去る。


 あとに残ったのは、焦げた地面の匂いと、静まり返った滝の音だけだった。


 この出来事が、僕の中に「守るための力」への強い意識を植え付けることになった。


 春の風はまだ柔らかい。けれど、その向こう側に潜む影を、僕はもう無視できなくなっていた。

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