第61話 織り成す布、魔法の対価
浴槽は、一晩で完成するものではなかった。
ドライアドが整えた形は、確かに理想的な浴槽の曲線を描いていた。けれど、生きた木を加工している以上、木としての“成長”を待つ必要がある。
「……ゆう様。あと二、三日は、このまま見守る必要がありますわ」
「了解。急ぐ旅じゃないし、じっくり待つよ」
僕は、完成途中の無垢の器を見つめながら頷いた。
でも、ただ待っているだけじゃもったいない。その間にできることは、まだある。
「……ねえ、リア」
「はい」
「せっかくお風呂に入るならさ。体を拭くものを、ちゃんと新調したいんだ。今までのやつだと、水を吸うにはちょっと物足りないから」
これまで僕たちが使っていたのは、野生の植物の繊維を荒く編んだだけの、ゴワゴワした大きな布だった。泥を落とすには十分だったけれど、お風呂上がりの肌を包むには、もう少し柔らかくて吸水性のいいものが欲しい。
「……それなら、タオルが作れますわ」
リアが取り出したのは、以前から少しずつ紡ぎ溜めていたコットンの糸だった。
その夜。焚き火の柔らかな光の下で、リアは簡易的な織り枠を器用に操り始めた。
「……ちゃんと『布』って感じだね」
「はい。今までは“それっぽい代用品”でしたが、これは正真正銘の『布』ですわ」
出来上がったそれは、現代のタオルのようにふわふわではないし、目もまだ少し粗い。けれど、そこには手織り特有の、優しい温もりがあった。
「……いいね。これで準備はほぼ整ったね」
「はい。あとは、浴槽の完成を待つだけですわ」
翌日。浴槽は、ほとんど完成していた。
木の内側はなめらかに磨き上げられたようで、縁の曲線も美しく整っている。あとは、細部の仕上げを残すだけだった。
「……今日で、終わらせますわ」
朝一番、リアがそう言った。
「無理しなくていいよ。あと数日かかるって言ってたじゃない」
「……可能ですわ」
その返事は、いつもより少しだけ強かった。僕を早くお風呂に入れてあげたい。そんな、彼女なりの気負いのようなものを感じた。
リアは森に向き直る。精霊に意識を開き、木の成長を一段と促していく。
ゆっくりでいい。そう言い聞かせていたはずなのに、彼女の指先からは昨日よりも濃い魔力の粒子が溢れていた。
木が、わずかに軋む。形が、目に見える速度で“完成”へと向かっていく。
「……リア?」
声をかけようとした、その時だった。
リアの体が、ふらりと頼りなく揺れた。
「……っ」
そのまま、糸が切れた人形のように膝が崩れる。
「リア!」
僕はすぐに駆け寄り、地面に座り込んだ彼女を支えた。意識はあるようだったけれど、全身から力が抜けてしまっている。
「……大丈夫? 何があったの」
「……」
一瞬遅れて、彼女は小さく、深く息を吸い込んだ。
「……魔力を、使い切りましたわ」
淡々とした声。でも、顔色は明らかに悪い。
「……一気に、やりすぎたんだね」
「……はい。精霊は、要求された分を正確に実行しますの」
「……止めては、くれないんだ」
「はい。……対価がある限り、彼らは止まりませんわ」
僕はリアを抱え、小屋の毛皮の上に静かに寝かせた。
「……ごめんなさい、ゆう様。今日中に、終わらせたかったので……」
「……気持ちは嬉しいけど、無理はよくないよ。僕も昨日、同じことをしたばかりじゃないか」
僕はそっと毛皮を掛けた。リアは眠っているわけではないけれど、魔力が完全に底をつき、指一本動かすのも辛そうだった。
「……精霊ってさ、便利だけど、優しくはないんだね」
「……正確ですわ」
リアは少し考えてから答えた。
「精霊は、できることとできないことを判断します。そして、できる場合は、対価として術者の魔力を要求しますの。……今回は、術者であるわたくしの方が、その負荷に耐えられませんでしたわ」
僕は苦笑した。
「……燃料、ってことか。精霊魔法は、術者の魔力をガソリンにして動くエンジンみたいなものなんだね」
「はい。……その通りですわ」
だから、彼らは忖度しない。気遣いもしない。求められた分だけ、正確に応え、対価を奪っていく。
「……分かった。次からは、僕がストップをかけるよ」
僕はリアの枕元に座った。
「今日はここまで。そう言えるようにしよう」
「……はい」
リアは少しだけ安心したように、ゆっくりと目を閉じた。
その日は、すべての作業を中断した。浴槽は未完成のまま。でも、それでいい。
精霊と魔力の冷徹な関係。そして、無理をした先に起こること。
二人は、自分たちの体を通して、また一つこの世界の理を理解した。
完成は、明日でいい。リアの回復は、ゆっくりでいい。
この家は、どこにも逃げはしないのだから。




