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第53話 噛み合わない理(ことわり)

 それからも、練習は毎日続いた。


 朝、外に出ると、泉の向こうから気配がする。


 鹿だ。何頭かの群れが、当たり前のように近くまで来る。


「おはよう」


 声をかけると、一頭がゆっくりと顔を上げる。逃げないし、警戒もしない。

 僕がむやみに動かないと分かっているのか、そのまま水を飲み、やがてくつろぐように座り込む。


「……今日も、来ていますわね」


「うん」


 リアは、少し離れたところでその様子を見ている。


 彼女の周りに漂う精霊の気配に惹かれているのか。


 僕たち二人に慣れただけなのか。


 ただ、こうして鹿たちが僕たちのそばでくつろいでいる。その事実だけで、十分だった。


 鹿たちが去る頃、今度は空から大きな影が落ちる。巨大な翼が、陽を遮る。


「……来た」


 ほどなくして、鷲が降りてくる。地面にそっと落とされたのは、今日もウサギだった。


「ありがとう!」


 僕が思いきり手を振って叫ぶと、上空で、はっきりと鳴き声が返ってくる。


「……返事、しましたわね」


「したよね、今の」


 獲物を受け取り、火の準備をする。その間にも、僕は習慣のように、胸の前に意識を集める。


 一画目。二画目。空中に、淡い光が描かれる。


 ――ぱちっ。


 小さな雷光。もう、失敗することはない。


「……問題ありませんわ」


「うん」


 それだけで、満足だった。


 昼は、それぞれのことをする。リアは精霊と話し、僕は道具を直し、薪を集め、合間にまた練習する。


 夕方。影が長くなり、風が冷たくなる。今日も一日、何事もなかった。それが、何より嬉しい。


「……今日も、楽しい一日でしたわ」


 リアが、ぽつりと言った。


「うん」


 僕は迷わず答える。


 夜が来る。火を囲み、食事をして、静かな時間が流れる。明日も同じことをする。鹿が来て、鷲が来て、練習をして。


 二人、抱き合って眠る。


 それでいい。それがいい。


 この日々がいつまでも続くような気がして――僕たちの誰も、それを疑っていなかった。


 初夏は、すぐそこまで来ている。


 ある日のことだ。


 鹿が去り、鷲も空へ戻ったあと。いつものように、僕は胸の前に意識を集めた。


 一画目、二画目。空中に描かれる光の線は、もう迷いなく繋がる。


 三角目、……。


 ――ぱちっ。


 小さな雷光。


「……うん、今日も問題なし」


 そう言ってから、ふと、隣を見る。リアは、いつも通り見ているだけだった。


「……そういえばさ」


 何気なく、本当に何気なく聞いた。


「リアは、この魔法は使わないの?」


 聞かれたリアは、一瞬だけ、間を置いた。


「……使えませんわ」


「……使えない?」


 意外だった。


「使えるけど、使わない、じゃなくて?」


 リアは、首を横に振る。


「いいえ。……使えませんの」


「え」


 思わず声が出た。


「リアでも?」


「はい」


 当たり前のように答える。


「構造は、理解しています。文字の意味も、記号の配置も、すべて把握していますわ。ですが」


 一拍。


「発動しませんの」


 僕は胸の前で手を止めた。


「……なんで?」


「……わかりませんわ」


 リアは、珍しく即答しなかった。


「理論上は、成立するはずです。ですが、魔力を流そうとすると……噛み合わない、感覚がありますの」


「噛み合わない?」


「はい。わたくしが流すと、世界の魔力が、遠くなるような……」


 それを聞いても、僕は深く考えなかった。


「……相性、みたいなものかな」


「……その可能性は、ありますわね」


 リアは、それ以上は言わなかった。


 それで、この話は終わった。


 その日の練習も問題なく終わり、雷光は安定していた。

 けれど――リアは、僕が見ていない時、一度だけ、自分の掌を見つめていた。


 何かを確かめるように。


 そして、何も言わなかった。

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