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第5話 朝の光と、小さな収穫

本日もう一話、いけたらいきます

 まぶたの裏に、柔らかな光が届き始めた。

 意識がゆっくりと浮上してくる。


 頬に触れる、ごわごわとした、けれど驚くほど温かな毛皮の感触。重なり合うような、静かで規則正しい呼吸の音。それは、僕が知っている「死」の静寂とは正反対の、圧倒的な「生」の律動だった。


(――ああ、そうか。僕たちは、守られていたんだ)


 ゆっくりと目を開ける。


 朝霧が立ち込める泉のほとりに、木漏れ日が白い梯子のように差し込んでいた。

 僕を包んでいた大きな影が、ゆっくりと身を起こす。


 立派な角を持った雄鹿だ。心なしか、角が銀色に光ってみえた。朝日に照らされたその毛並みは、夜の闇で見た時とは違い、濡れたような光沢を放ち、銀色の縁取りがなされたように輝いている。


 彼は僕を一瞥すると、鼻先を小さく鳴らした。まるで「もう大丈夫だ」と告げるような、静かな合図。


「……おはよう。助けてくれて、ありがとう」


 僕が声をかけると、雄鹿はもう一度だけ深い森を映したような瞳で僕を見つめ、それから一歩、また一歩と、朝霧の向こうへ歩き出した。他の鹿たちも、それに続く。彼らの蹄が濡れた草を踏む柔らかな音が、森の奥へと遠ざかっていく。


 リアも、いつの間にか目を覚ましていた。


 銀糸のような髪を朝風に遊ばせながら、去りゆく鹿たちの背中を、何事かを記録するかのようにじっと見送っている。


「……体温の供給源が、離れていきます。昨日よりも空気の密度が低く、肌を刺すような冷たさを強く感知しています。……これが、『寒い』という感覚の深層なのですね」


「……ね。でも、彼らのおかげで凍えずに済んだよ。本当、不思議な夜だったなあ」


 鹿たちの姿が完全に森の深淵へと消えていくと、それまで感じていた一体感が失われ、急に世界が広く、そして心細くなった。


「……リア。お腹、やっぱり空いちゃうね。生きてるって実感が、こういう時に一番くるよ」


 僕が力なく笑うと、リアは自分の腹部にそっと手を当て、頼りなげに眉を寄せた。


「同意します。……お腹の奥が、まるで何も存在しない空洞になってしまったようですわ。……その『無』が、わたくしの内側を激しく削り取ろうとする感覚が止まりません。身体というシステムは、なんと非効率なのでしょう。燃料を絶え間なく注ぎ続けなければ、自らの形を保つことすらままならないなんて」


「はは……手厳しいね。でも、それはお互い様じゃない? コンピューターは電気がないとただの箱だっただろう?」


「……っ。それは……反論の余地がありませんわね。わたくしも今、まさに『バッテリー残量低下』の警告灯が脳内で点滅している気分ですわ」


 リアは少しだけ悔しそうに唇を尖らせたが、すぐに視線を前方へ向けた。僕たちは立ち上がり、少しだけ昨夜とは違う方向へ足を踏み入れた。しばらく歩くと、朝露に濡れて宝石のように輝く、鮮やかな赤い実の群生を見つけた。


「……これ、キイチゴかな?」


「『クサイチゴ』の可能性が極めて高いですわ。バラ科キイチゴ属。糖分とビタミンが豊富で、毒性は検出されません。食用に非常に適しています」


 僕は一粒摘んで、隣に立つリアに差し出した。

 リアは少しだけためらうような素振りを見せたあと、僕の指先からその小さな実を、唇を寄せて受け取った。


「…………っ!」


 その瞬間、リアの身体が微かに強張った。

 驚きに目を見開く彼女の瞳には、昨日のあけびの時とは違う、鋭い光が宿っている。


「……リア? どうしたの?」


「……驚きました。あけびの重厚な甘さとは対照的な、この……神経を鋭角に刺激するような酸味。その直後に、浸透圧の差で細胞に染み込んでくるような甘みが追いかけてきます」


 彼女は自分の腹部を、確かめるように両手で押さえた。


「実を咀嚼し、嚥下した瞬間……お腹の奥の、あの耐え難い『空白』が、温かな実体で満たされていくのが分かります。身体というシステムが、この物質を『正解』として受け入れている……。これが、『糧』が細胞に染み渡り、自分という形を繋ぎ止めてくれる感覚なのですわね」


 そう言って、彼女は自ら手を伸ばし、次の一粒を丁寧に摘み取った。


「以前の私には、知識としての『味』しかありませんでした。けれど今は……舌の上で果汁が弾ける感覚が、ダイレクトに……胸の奥まで響きます。ゆう様、これは……素晴らしい『更新(アップデート)』ですわ」


 リアは表情を大きく崩すことはなかったが、その頬には微かな熱が宿っていた。


 知識でしかなかった「栄養摂取」が、生存のための「実感」へと変わる。その不可逆な変化を、彼女は自分自身の回路に刻み込むように、一粒ずつ、慎重に味わっていた。


 けれど、キイチゴだけでは、本当の意味での空腹は満たされない。帰り道、今度は足元に硬いものが転がっているのに気づいた。


「……あ、栗だ。それも、こんなにたくさん」


 イガが綺麗に割れ、中から艶やかな茶色の実が顔を出している。


「栗は非常に栄養価が高く、炭水化物、タンパク質、脂質をバランスよく含んでいます。これを一定量摂取できれば、活動限界を大幅に延長できます」


 リアは冷静に分析するが、その実を手にとったあと、少しだけ困ったように眉を寄せた。


「ですが、検索結果によれば、生のままでは消化効率が極めて悪く、でんぷんの摂取としては不十分です。また、渋みも強く、本来の風味を損なうとあります。……加熱処理、つまり『焼く』ことが必要です」


「……だよね。あけびやキイチゴはいいけど、栗をそのまま食べるのはちょっときついなあ」


 目の前にある、確かな食料。けれど、それを「真の糧」にするためには、昨夜、どうしても手に入れることができなかったものが必要だった。


「……リア。今日こそは、絶対に火を起こそう。あたたかい食べ物があれば、きっともっと……ここでもやっていける自信がつくと思うんだ」


「了解しました。昨日得た摩擦の試行データ、および周辺の湿度環境を再計算し、火種を作るための最適解を導き出します」


 朝の明るい光の下、僕たちは栗を抱え、再び泉のほとりへと戻った。昨日までの焦燥感とは少し違う、生きるための静かな決意。僕たちの手には、いくつかの栗と、そして消えない「火」への切実な渇望があった。

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