第4話 孤独の終わり、生命の輪
日が落ちると、世界は急に狭くなった。
昼間はあれほど遠くまで見えていた森が、闇に溶けて、不気味な輪郭だけを残して迫ってくる。視界は足元の数メートル先までしか届かない。
(――夜の野外は、こんなに怖かっただろうか)
焚き火はない。どこかで、乾いた枝が折れる音がした。
びくりと肩が跳ねる。
風かもしれないし、動物かもしれない。それでも、音は音だ。闇の中で聞くそれは、すべてが自分に向けられた脅威のように感じられた。
「……リア」
声を落として呼ぶ。
「はい」
すぐに返事が返ってくるだけで、胸の奥が少しだけ落ち着く。
泉のそばに、一本の大きな木があった。幹の根元に、自然にできたうろがある。
「……ここ、どうかな」
「風は遮られます。最適な場所です」
それだけで、十分だった。
二人で身を寄せるようにして、木のうろの奥へ入る。外の闇が、少し遠のいた。それでも、音は消えない。
遠くで、何かが鳴いた。高く、細い声。また別の方向から、地を這うような低い音。
野生動物だと、頭ではわかっている。それでも、息を潜めてしまう。心臓の音が、やけに大きく感じられた。
そのときだった。
かさり、と草を踏む音が近づいてくる。
数ではない。ひとつ、ふたつ……いや、もっと多い。
(――何か、来る)
思わず、リアを見る。リアも、黙って外を見ている。
やがて、雲の切れ間からわずかな月明かりが差し込み、泉のほとりを淡く照らし出した。
その光に縁取られて、闇の中からゆっくりと影が現れた。
鹿だった。
大きな角を持った雄鹿。それから、数頭の牝鹿と、小さな子鹿。
何頭も連なって、泉のほとりに現れる。彼らは静かに、水を飲み始めた。水音が、さざ波のように広がる。
息を詰めたまま見ていると、一頭の鹿が、こちらを向いた。
目が合う。
暗い中でも、月明かりを湛えたその瞳は、驚くほど澄んでいた。
鹿は、じっとこちらを見たまま、首を傾けるような仕草をした。
不思議と、怖くなかった。むしろ、その視線の奥から、言葉にならない何かが伝わってくる。
(――寒いなら、おいで)
そんなふうに、言われた気がした。
「……えっ」
小さく呟く。リアが、こちらを見る。
「どうしましたか」
「……いや、なんでもないんだ」
説明できなかった。
鹿たちは、水を飲み終えると、泉のそばにそのまま腰を下ろした。草の上に身を丸め、互いの体に寄り添う。
その輪の中に、ぽっかりと空いた場所がある。
気づいたときには、身体が動いていた。
そっと、近づく。鹿は、逃げない。むしろ、少し身をずらして、場所を空けてくれた。
鹿の体は、驚くほど温かかった。
生きている毛皮の匂い。やわらかく、厚い、確かな生命の感触。
気づけば、僕とリアは、鹿たちのぬくもりに囲まれていた。
リアが、わずかに目を見開く。
「……体温が、高いです」
「あったかいね……」
声が、自然と小さくなる。
寒さが、嘘みたいに引いていく。
鹿の体温。呼吸の揺れ。安心する重さ。
闇の中で、鹿の瞳が、静かに瞬いた。怖かった夜は、いつの間にか、遠くなっていた。
僕は、鹿の毛皮に包まれたまま、そっと目を閉じる。
ここがどこかは、まだわからない。
生きているのか、死んでいるのかも。
それでも。
この夜は、確かに、温かかった。




