第32話 白い糸の始まり
夜の記憶は、ところどころ曖昧だった。
気づけば、外が明るくなっていた。
リアは、まだ近くにいる。いつもより、少しだけ距離が近い。
それが、もう当たり前になっていた。
ふと、昨夜の感覚が指先に蘇る。
絡まった指の温度。背中越しに伝わってきた、規則正しい鼓動。
夢だったのか現実だったのか判然としないけれど、今のこの距離感が、答えのような気がした。
「……おはようございます」
リアが、微かにシーツを擦れさせて身を起こした。
少し乱れた髪の隙間から、まだ眠気の残る瞳が僕を見る。
「……おはよう、リア」
いつも通りの挨拶。けれど、空気はどこか柔らかい。
僕たちはしばらく、冷え切った部屋の中で、お互いの体温が残る場所から動かずにいた。
やがて、どちらからともなく起き上がり、一日が始まる。
火を熾し、鉄鍋を火にかける。
朝食を済ませたあと、僕は昨日から気になっていたものを取り出した。
秋の終わりに、森の縁で採取しておいた綿花の塊だ。
「……これさ。そろそろ、糸にできないかな」
僕の言葉に、リアは白湯の入ったコップを置き、じっと綿を見つめた。
「……検索します」
彼女の視線が少しだけ遠くなる。
膨大な情報の海から、この原始的な生活に合う答えを探しているのだろう。
「……見つかりました」
リアは淡々と、けれど丁寧な口調で説明を始めた。
工程は大きく三つ。種を取り、繊維を整え、そして最後に『紡ぐ』のだという。
「……まずは、一番地道な種取りからだね」
僕がそう言うと、リアは無言で頷き、僕の向かいに座った。
籠の中から綿の塊を一つ取り出し、その白い毛の中に指を沈める。
その瞬間、僕は思わず手を止めて、彼女に見入ってしまった。
窓から差し込む冬の淡い光が、リアの横顔を透き通るように照らしている。
伏せられた長い睫毛。
真剣に、けれど優しく綿をほぐす指先の、驚くほど繊細な動き。
種を一粒、丁寧に摘み出すたびに、彼女の細い指がしなやかに踊る。
普段は無機質にも感じる彼女の「検索」や「分析」が、この手仕事の中では、とても温かく、生き生きとしたものに見えた。
「……どうかしましたか」
視線に気づいたのか、リアが顔を上げずに尋ねる。
「……いや。リアの指、綺麗だなって思って」
正直に言うと、彼女の動きがほんの一瞬だけ止まった。
けれど、すぐにまた小さな種を一粒、籠の隅に置く。
「……作業の効率には、関係のない情報ですわ」
少しだけ、彼女の声が硬くなった気がした。
けれど、わずかに赤みを帯びた彼女の耳たぶを見て、僕は自分の胸の鼓動が少しだけ早くなるのを感じた。
数日掛けて、種取りを終え、僕は削り出しておいた木製のスピンドルを取り出した。
円盤の真ん中に棒を通しただけの、独楽のような単純な道具だ。
「……これで、本当に糸になるのかな」
僕が呟くと、リアは静かに視線を上げた。
「……検索の結果によれば、原理は単純です。繊維を引き出し、回転を与えて撚る。それだけで、綿毛は強度を持ち、糸へと変わります」
彼女はそう言って、僕の手からスピンドルを受け取った。
細く長い指が、綿の塊からわずかに繊維を引き出す。
それをスピンドルの軸に絡め、床の上で軽やかに回転させた。
シュルシュル、と小さな音を立てて独楽が回る。
リアの指先が魔法のように動き、ふわふわとした綿が、一本の細い線へと姿を変えていく。
「……すごいや、リア。コツがあるの?」
「……指先の、加減です。引き出す量と、回転の速さ。その均衡が崩れれば、糸は途切れます」
リアは集中しているのか、少しだけ眉を寄せている。
横顔に当たる陽光が、彼女の白い肌を透かし、真剣な眼差しを際立たせていた。
けれど、しばらくすると、独楽の回転が止まった。
引き出した繊維が太すぎたのか、ぷつり、と糸が切れてしまう。
「……難しいものですわね。知識として知っていることと、この指が覚えることは、別次元の情報です」
リアが珍しく、困ったように小さく息をついた。
僕は自然と、彼女の隣へ移動していた。
肩が触れ合うほどの距離。彼女のまとう、冬の空気と混ざり合った淡い香りが鼻をくすぐる。
「……ちょっと、貸してごらん。一緒にやってみよう」
僕は後ろから手を伸ばし、リアの手に自分の手を重ねた。
はっ、と彼女の肩が微かに跳ねる。
けれど、彼女は僕の手を振り払うことはしなかった。
僕の手のひらに包まれた、リアの小さな手。
いつもは冷静な彼女の指先が、今は驚くほど熱を帯びているのがわかる。
「……こうして、少しずつ。焦らずに」
僕の指先が、彼女の指を導くようにして綿を引き出す。
二人の手が重なり、一つの動きを作る。
僕の胸元には、彼女の柔らかな金髪が触れていた。
近すぎる距離に、僕の鼓動も少しずつ早くなっていく。
「…………」
リアは何も言わない。
ただ、伏せられた睫毛が微かに震え、重なり合う指先に力がこもる。
独楽が再び、静かに回り始めた。
二人の指先の間で、一本の白い糸が、ゆっくりと、けれど確かに紡がれていく。
「……繋がりましたわ」
小さな、吐息のような声。
リアが顔を上げると、至近距離で僕と目が合った。
透き通るような瞳に、僕の姿が映っている。
彼女の頬が、冬の寒さのせいだけではない赤みに染まっていた。
外は、昨日よりも風が強く、雪が壁を叩く音が聞こえる。
けれど、小屋の中には火の匂いと、綿をほぐす小さな音が満ちていた。
一粒ずつ、種を取り出していく。
指先が触れ合う距離で、僕たちは静かに、新しい冬の仕事を始めた。




