第16話 空からの客人と、緑の祈り
昨日の更新の14話がおかしかったので修正しました。
15話の後書を追加しました。
魚を抱え、満足感に浸りながら歩いていた、その時だった。
地面を、巨大な影が猛烈な速度で横切った。
「……っ?」
反射的に、空を見上げる。
青空を切るように、黒い何かが旋回しているのが見えた。
――いや、違う。旋回ではない。ふらついている。
「……あれ」
言葉にする前に、羽ばたきが乱れた。空中で大きな影が不自然に傾き、次の瞬間。
バシャァッ。
鈍く、重い音。泉の方角から、水が大きく跳ねる音がはっきり聞こえた。
「……今の、落ちたよね」
「はい。自由落下に近い衝撃音を確認しました」
顔を見合わせる暇もなく、僕たちは泉へと走った。
縁に着いて最初に見えたのは、水面に浮かぶ、岩のようにも濡れた布の塊のようにも見える、巨大な「何か」だった。
「……生き物?」
「未確認です」
一歩、また一歩。慎重に近づいたその時、バサッ、とそれが動いた。
広がったのは、大人の背丈ほどもある大きな翼。
「……鳥類。おそらくは、鷲と分析します」
リアの声が低くなる。
泉の縁に這い上がろうとしているそれは、鋭い嘴と濡れた羽毛を持つ、紛れもない鷲だった。
だが、片方の翼が不自然に折れ、水面には赤い色が滲んでいる。呼吸は浅く、僕たちを睨む力さえ残っていない。
「……ひどい怪我だ」
リアは、すぐに駆け寄ると鷲のそばに膝をついた。彼女の瞳が、高速で対象をスキャンするように細かく動く。
「……右翼橈骨および尺骨の複雑骨折を確認。軟部組織の広範囲な挫滅、ならびに開放性外傷による持続的な失血……。心拍数は低下し、呼吸不全を併発しています。……この個体の生命維持システムは、まもなく……完全停止へと移行しますわ」
淡々と、冷徹なまでに事実を並べるリア。けれど、その視線は鷲の弱りきった瞳から一秒たりとも離れない。
「……計算上の生存確率は、0.3パーセント以下。……手遅れです。放置し、自然のサイクルに任せるのが『合理的』な判断……。ですが。……ですが、ゆう様。私は……この、目の前で消えようとしているデータを、単なる『損失』として処理したくありません。……この状態は。……回避したい」
理屈じゃない。合理や判断という言葉とは明らかに違う、切実な響き。
その瞬間、空気が変わった。風でも光でもない、何かが集まってくる感覚。
リアの周囲に、淡い緑の光が、ふわりと漂い始める。
「……生命の意思……? ……と、接続を確認しました」
彼女自身が戸惑いながらも、そっと手をかざした。
指先は鷲の傷口からわずかに離れた位置で止まる。
触れてはいない。それなのに、光が、集まり始めた。
最初は気のせいかと思うほど淡い、朝露が光を反射するような柔らかな輝き。
やがてそれは、緑がかった、あたたかい光の塊へと変わっていく。見ているだけで肌に温もりが伝わってくるような色だった。
リアの表情は、これまで見たことのないものだった。
眉をきつく寄せ、唇を噛み締めている。
それは分析でも判断でもない、必死に願っている顔だった。
泉の水面が、風もないのにわずかに揺れた。
水の中から、小さな光の粒がふわりと立ち上る。
蛍のように、しかしもっと静かで淡い光が音もなく揺らめき、リアの方へとゆっくり昇っていく。まるで、彼女を励まし、寄り添うように。
この幻想的な光景を、見ているのは僕だけだった。
光の粒がリアの背後で静かに弾けると、傷口を包む光がいっそう強まった。
赤かった傷が、ゆっくりと色を失っていく。
鷲の胸が、大きく上下した。深く、息を吸う。
生命が、はっきりと戻ってきている。
リアは肩を震わせながらも、決して手を下ろさなかった。この瞬間だけは、現実だとか昼だとか、そんなことはどうでもよかった。
ここには確かに「言葉にできない、けれど存在する何か」があった。
やがて光が収まると、鷲の羽根が力強く震えた。
僕は、罠から取り出したばかりの一番大きな魚を一匹、鷲の前にそっと置いた。
「これ……食べて。体力をつけなきゃ、飛べないだろ?」
鷲は僕とリアを交互に見つめ、やがてその鋭い嘴で魚をがっしりと咥えた。
バサァッ、という力強い羽ばたき。
鷲は一瞬だけ旋回して、森の奥へと去っていった。
「……行っちゃったね」
「はい。……生命維持のサイクルへ、無事に帰還しましたわ」
リアの言葉はいつもの落ち着きを取り戻していたけれど、その瞳には、先ほど見た幻想的な光の余韻がまだ静かに残っていた。
彼女自身、今起きた現象をどう処理すべきか測りかねているような、どこか遠い目。
ふと、自分の手元を見る。
鷲に差し出した一番大きな魚の代わりに、掌には生臭さと、ぬるりとした水の感触だけが残っていた。
(……さっきの、あの光は何だったんだろう)
リアの手のひらから溢れ出した、あの柔らかな翠の輝き。水面から立ち上り、彼女に寄り添うように踊っていた光の粒。科学も、物理法則も、リアの言う「演算」も、あんな現象は説明できないだろう。
この場所が持つ「ルール」そのものが、僕たちの知る世界とは根本的に違っているのか。
思考の渦が、脳裏をかすめる。けれど、僕は小さく首を振って、その疑問を意識の隅へ追いやった。
(……いや。今は、そんなことどうでもいいことか)
理屈なんて、後でいくらでも考えればいい。
大事なのは、折れていた翼が繋がり、消えかけていた鼓動が再び力強く刻み始めたこと。
そして、僕たちが分かち合った一匹の魚が、ひとつの命の力となったことだけ。
それだけで、今は十分すぎるほど十分だった。
「リア、戻ろう。……この魚は、今日の仕事が全部終わるまでのお楽しみだ。これをご褒美にすれば、夕方まで全力で動けるだろ?」
「肯定ですわ、ゆう様。……目標が明確であれば、空腹によるパフォーマンス低下も、精神的充足で相殺可能ですわね。……わたくしも、今なら記録が真っ赤に染まるほどの効率で、開拓作業を完遂できそうですわ」
僕たちは顔を見合わせ、今度こそ本当の満足感を胸に、拠点への道を歩き出した。
背負ったカゴの中で跳ねる魚の重みが、これからの厳しい労働を支える、何よりの「希望」に変わっていた。




