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第112話 満月の神域と、銀盤の舞姫


 満月が、静かに昇っていく。


 雲ひとつない聖域の夜空に、万物を浄化するかのような、澄みきった光が満ちている。


 泉は芯まで凍てつき、巨大な水晶の鏡となって、天空の月を深く映し出していた。


 その鏡面の上に、一筋の銀が立つ。


 リアだ。

 

「……シルフ」

 

 唇からこぼれた一言で、世界の空気がわずかに震えた。


 一歩踏み出し、氷を蹴る。


 同時に、リアの歌声が、静寂の夜に響き渡った。 


 それは僕が前の世界で、疲れ果てた夜に何度も耳にしたボイスドールの名曲だった。

 

『ねえ、ちゃんと見てる? かわいい かわいい、わたしを見てね』

 

 驚愕で立ち尽くす僕を置き去りにして、リアは加速する。


 いつもの「完璧なAI」でも、お嬢様然とした「高潔なエルフ」でもない。


 そこにいたのは、全身で僕への愛を叫び、一秒の視線すら独占しようと躍動する、小さな恋の妖精だった。

 

『その視線、少しでも逸らしたら 許さないんだからね』

 

 一気にスピードに乗った彼女が、右足の刃を突き立てた。


 シルフの加護を受けた跳躍は、月まで届きそうなほど高く、鋭い。


 空中で銀髪が激しくうねる。三回転、四回転……。

 

「……五回転!?(クインティプル・トウループ)」

 

 練習など一度もしていない。ぶっつけ本番で繰り出されるその神業に、僕は息を呑む。

 

 膨大な情報を瞬時に処理するAIとしての構成力。


 物理法則の限界を押し広げるシルフの絶対的な補助。


 そして、それらを受け止める、しなやかで強靭なエルフの肉体。


 その三つが完璧に噛み合った時、氷上には理論を超えた「奇跡」が顕現していた。

 

『一番じゃなきゃ意味ないの わたしの中ではそうなの』

 

 フライングキャメルスピンからレイバックスピンへ。


 激しい回転が終わり、再び滑り出すと同時に、彼女はあろうことか僕に向けて、軽やかに、そして情熱的に投げキッスを飛ばした。


『ドクン』


 僕の心臓が、跳ね上がる。 


 彼女の動きが変わった。


 いつもの凛とした佇まいはどこへやら、曲の歌詞に合わせて首をちょこんと傾げたり、スカートの裾をつまんで跳ねるように滑ったりと、少女のような愛らしい仕草を次々と繰り出していく。

 

 その一挙手一投足に、僕の心臓はバクバクとうるさい音を立てている。


 その時。凍りついた泉の底から、淡い光の雫がいくつも浮かび上がった。

 

 ウィスプ。小さな、光の精霊たち。

 

 彼らは氷の下から、ゆらゆらと、祝福するように現れ、舞い踊るリアの周りを幻想的な輪となって取り囲む。


 リアの躍動する肉体に合わせて、ウィスプたちもふわり、ふわりと、吸い寄せられるように揺れる。

 

『この世界はまだ未完成 わたしが望む形に 塗り替えてあげるの』

 

 ステップシークエンス。


 光の精霊たちが、尾を引く彗星のような軌跡を描く。


 複雑なエッジワークで氷を刻みながら、彼女は僕のすぐ目の前まで滑り寄る。


 その薄緑色の瞳には、もう検索結果など映っていない。


 そこにあるのは、ただ僕だけを映し出し、僕だけに捧げられた、生身の、熱い、恋する女性の輝き。

 

『だから ちゃんと愛してよ ちゃんと選んでよ 何億の中のひとつでも わたしだけを選んでね』

 

 最後の一節を、全身を使って愛を囁くように歌い終え、彼女はコンビネーションスピンで激しく回転。


 天を仰ぎ、すべての光を一身に浴びて静止した。


 静寂が戻る。


 月光の下、肩を大きく揺らして荒い息をつくリア。

 

 立ち昇る白い呼気が、彼女が間違いなくここに存在し、僕のために全霊を捧げたことを物語っていた。

 

 やがて、彼女は吸い寄せられるように僕の元へ滑り寄り、鮮やかに停止した。

 

 まだ演技中の可愛らしい余韻に引かれているのか、彼女は潤んだ瞳で、これ以上なく可憐な上目遣いを向けてくる。

 

 それでいて、僕の反応が怖くて仕方がないというように、小さく唇を震わせていた。

 

「……いかがでしたか。わたくしの、プログラムは」

 

 白皙の頬は、運動の熱と羞恥で、見たこともないほど濃い桜色に染まっている。

 

 僕は見惚れた間抜け面から立ち直ると、枯れそうな声を振り絞って答えた。

 

「……すごい…よかった。……僕が知っている誰よりも、今のリアが、一番綺麗だった」

 

 その言葉に、リアは一瞬だけ目を伏せ、顔を上げた。


 そこに安堵したように、柔らかな笑顔がこぼれ出る。

 

 前髪が汗で額に張り付き、白い息を吐きながら上気したリアの顔。


 「……やっと……やっと、あなたに歌ってあげられましたわ」

 

 その声は、夜風に溶けてしまいそうなほど微かだったけれど。

 

 確かな体温と共に、僕の胸の奥深くにまで届いた。

 

 僕はまた、恋をした。

 

 何度も、何度も、彼女を好きになる。

 

 胸の奥から愛おしさが湧き出てきて、もう止めることなんてできなかった。

 

「……では」

 

 リアは一歩、逃げられない距離まで滑り寄る。


 僕は思わずリアを抱きしめた。


 リアの囁く声が耳に届く。

 

「帰ったら……約束、ですわよ?」

 

 月は、まだ高い。

 

 ただ、天に浮かぶ月だけが、その眩しすぎる奇跡の余韻を見ていた。

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