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第101話 泉の囁き、安らぎの閾(しきい)

明日から1日1回、夜20時のみの更新となります。

それに伴いリリアの後書きは無くなります。




 聖域の深奥へと進むほど、空気の密度が変わっていくのがわかった。


 北の大森林の、あの喉を焼くような乾燥した冷気とは違う。


 湿り気を帯びた草の匂いと、精霊たちが放つ柔らかな魔力の粒子が、肌に心地よくまとわりつく。


 やがて、木々の隙間から見慣れた銀色の輝きが溢れ出した。


 僕たちの旅の起点であり、この聖域の心臓部。あの透き通った泉だ。


「……おかえりなさい、勇気ある旅人たちよ」


 水面が静かに盛り上がり、泉の精霊さまが姿を現した。その姿は、出発の日と何一つ変わっていない。


「北の大森林……。あの滞りは、解消されたようですね」


「はい。……色々ありましたが、なんとか。向こうの主とも、話をつけてきました」


 僕がそう言うと、精霊さまは少しだけ不思議そうに目を細めた。


「……話、を? 私はこの聖域に根を張る存在。泉の流れを通じて『滞っている、凍りついている』ことは分かりましたが、その先のことは……。向こうに、言葉を交わせる存在がいたのですね」


 精霊さまにとって、北の異変はあくまで「流れの不全」という現象に過ぎなかった。そこにある悲しみや、名を持たぬ王の孤独までは、この穏やかな泉には届いていなかったのだ。


「今は『フェンリル』という名を持っています。彼はもう、流れを止めたりはしません」


 リアの言葉に、精霊さまは静かに微笑んだ。


「そうですか……。滞りが消え、清らかな流れが戻ってきたのを感じます。……心から、感謝します」


 精霊さまは深く頭を下げ、祝福の雫を僕たちの頭上に降らせた。


 その水に触れた瞬間、旅で積み重なった澱のような疲れが、スッと消えていくのがわかった。


「……さて。それじゃあ、行こうか、リア」


「はい、ゆう様」


 泉を後にした。


 自分たちでならした小道、そして――。


 木々に囲まれるようにして建つ、小さな、けれど温かな僕たちの「家」。


 夕暮れの間近、オレンジ色の陽光が、家の壁を優しく照らしている。


「……やっと、着いたね」


 僕は一歩先に歩み寄り、家の戸を開けた。


 一ヶ月間、誰もいなかったはずなのに、家の中にはまだ二人の生活の残り香が漂っていた。植物の精霊が編んだ棚も、石の乳鉢も、あの日置いていった時のまま、僕たちの帰りを待っていた。


 僕は土間に荷物を下ろし、振り返った。


 まだ少し、外の厳しい世界から戻りきっていないような、緊張の面持ちで立ち尽くしているリア。


 僕は、彼女に真っ直ぐ向き合った。


 そして、努めて穏やかな、心からの笑顔を作って、両手を広げた。


「……おかえり、リア」


 リアは、一瞬だけ目を見開いて固まった。


 驚きに瞳が揺れ、それから、堰を切ったようにその双眸に熱い雫が溜まっていく。


「……っ……はい! ただいま、ただいま帰りましたわ……! ゆう様っ!」


 重い背負い袋が床に落ちる音と同時に、彼女は弾かれたように駆け出した。


 そして、僕の胸の中に、その小さな体を勢いよく飛び込ませた。


 ぎゅっと、壊れそうなほど強く僕の腰に腕を回し、僕の胸元に顔を埋める。


 伝わってくるのは、彼女の激しい鼓動と、安堵の震え。


 聖域の夏の夜気が、開け放たれた戸から入り込み、抱き合う二人の髪を優しく揺らした。

 ようやく、本当に、僕たちの旅は終わったのだ。

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