第102話 誓いと氷の守
旅の汚れを心ゆくまで洗い流してくれたのは、家の中に設えた総無垢の木製風呂だった。
ドライアドに頼み込んで作ってもらったそれは、まだ小さなこの家の中で唯一と言っていい、僕の大きな「わがまま」だ。
二人で並んで入ってもゆとりのある大きな浴槽に、リアが精霊たちに頼んで準備した湯をたっぷりと満たす。
木の香りに包まれ、リアと肩を並べて湯に浸かっていると、北の大森林で凍てついていた芯の冷えまでが、ゆっくりと解け出していくのがわかった。
風呂上がり、僕たちはベッドの前に設えたいろりを囲んだ。
夕食のスープを終え、今は食後の一杯を楽しんでいる。
「……ふぅ。やっぱり、ここが一番落ち着くね」
僕は、リアが淹れてくれたたんぽぽ茶を啜った。
旅の前に掘り起こし、乾燥させて保存しておいた根を煎じたものだ。特有の苦味と、土の温かさを感じる香りが、いろりの爆ぜる音と共に、僕をようやく「日常」へと引き戻してくれる。
「はい、ゆう様。……また、こうして二人でお茶を飲めて、わたくし、本当に幸せですわ」
火に照らされたリアの横顔を見て、僕は改めて、この平穏を噛み締めていた。
けれど、あの北での絶体絶命の瞬間――。
左腕を噛み砕かれ、意識が飛びそうになったあの時の恐怖が、ふと脳裏をよぎる。
「リア」
僕は、真剣な面持ちで彼女に向き直った。
「改めて、約束させてくれ。……さっきの熊の時もそうだけど、やっぱり僕は、君の盾になりたいんだ。もしまたあんな危険なことがあったら、次は迷わず僕を使いなよ。僕は、君を守るためにここにいるんだから」
感謝の言葉か、あるいは困ったような苦笑いが返ってくる。
そう思っていた。
だが、リアの手が止まった。
木のカップがいろりの縁に置かれる僅かな音が、異様に重く響いた。
「……ゆう様」
顔を上げた彼女の瞳には、慈しみではなく、鋭く凍てつくような光が宿っていた。
「それは、聞き捨てなりませんわ」
「え……? リア?」
「わたくしを置いて、ゆう様が傷つくことを前提とした約束など、認められません! わたくしが、どれほど……どれほど心配したと思っているのですか!」
リアの声が、震えている。
狭い室内、いろりを挟んだ至近距離で、逃げ場のない圧力が膨れ上がった。
それと同時に、異変は起きた。
彼女の美しい銀髪が、まるで見えない力に逆立つように、ふわふわと大きく膨らみ始める。それだけじゃない。窓を閉め切った夏夜の室内だというのに、彼女の足元から、あの北の深奥を彷彿とさせる凄まじい冷気が漏れ出したのだ。
「ひ……冷たっ!? リア、落ち着いて、いろりの火が消えちゃう!」
いろりの周りが白く霜払い始め、たんぽぽ茶の表面に薄氷が張る。
あまりの迫力に、僕は思わず後ろへ引いたが、背中はすぐに壁に当たった。その時だ。
リアの背後の狭い空間が、歪んだ。
そこには、現実の肉体を持たないはずの、あの巨大な白銀の狼――フェンリルの影が、守護霊のように揺らめいていた。王の瞳が、狭い室内を射抜くように黄金色に輝く。
「……っ、フェンリル!?」
驚愕する僕を余所に、リアはスッと視線を虚空へと向けた。
まるで見えない相手を諭すように、毅然とした、けれどどこか親しげな口調で言い放つ。
「あら、フェンリル。なんでもありませんわ。ゆう様が少しわからず屋なだけですから。……おかえりになってくださいまし」
その言葉が響いた瞬間、吹き荒れていた冷気がピタリと止んだ。
逆立っていた彼女の髪も、いつものしなやかな輝きを取り戻して、すとんと肩に落ちる。
フェンリルの影は、一瞬だけ名残惜しそうに鼻先を鳴らすと、霧が散るように消えていった。
「……ふぅ。驚かせてしまいましたか、ゆう様?」
何事もなかったかのように、にっこりと微笑むリア。
けれど、僕の心臓はまだ早鐘を打っていた。
……リアが怒ると、フェンリルが出てくるのか?
あの精霊王と「お友達」になったのは聞いていたが、まさか彼女の感情に呼応して、次元を越えて加勢に現れるほどとは。
……リア、守る必要、なくないか?
正直、そう思ってしまった。
彼女の背後には、世界最強クラスの用心棒が常時待機しているのだ。
けれど。
僕は膝の上で拳を強く握り直した。
……いや。それでも、だ。フェンリルに任せっきりなんて、男が廃る。あの強大な守護霊に頼らなくてもいいくらい、僕がもっと強くならなきゃ……!
聖域の小さな家。
僕は自分の無力さに打ちのめされながらも、隣で微笑む最強の「お姫様」を守り抜くために、さらなる修行の決意を固めるのだった。




