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第100話:雪解けの路 境界の向こうへ


 北の大森林を支配していた、あの刺すような呪いの寒気はもうなかった。


 フェンリルがその名を受け入れ、閉ざしていた心を開いたことで、世界は急速にその「熱」を取り戻し始めている。

 木々を覆っていた分厚い氷の殻は、陽光に焼かれてボロボロと崩れ落ち、あちこちで雪解け水が楽しげな音を立てて地表を走っていた。


「……ゆう様、見てください。あんなところに芽が」


 リアが指差した先、まだ雪の残る根元から、力強く緑の頭を覗かせる小さな命があった。


「ああ。本当に、春が来たんだね」


 一歩歩くごとに、足元の雪が湿り気を帯びて重くなっていく。それは、死の世界が再び生の世界へと生み出されるための、重苦しくも愛おしい産みの苦しみのように思えた。


 そんな生命の胎動に満ちた森を抜けていた、その時だった。


 ガサリ、と重苦しい藪の音が響き、正面の視界を茶色の巨体が遮った。


 一頭の巨大な熊だ。


 濡れた毛並みを波立たせ、こちらを真っ直ぐに見据えて、地響きのような唸り声を上げている。


「……ッ、伏せて、リア!」


 僕は反射的に指を突き出した。空中に一筆で『電撃』の文字を刻む。周囲の魔力が集まり、指先にバチバチと青白い火花が爆ぜる。


 だが、放とうとしたその瞬間。


「待ってください、ゆう様!あれは普通の動物です!……あの子の後ろを!」


 リアの鋭い制止の声に、僕は指を止めた。


 目を凝らす。母熊の太い足の影、重なり合うようにして、小さな、本当に小さな茶色の塊が二つ、震えながらこちらを伺っていた。


「……小熊」


「あの子たちを守るために……、お母さんは必死に襲いかかろうとしたのですね」


 母熊の瞳には、飢えよりも、守るべきものへの強い執着と警戒が宿っていた。


 僕は刻んだ文字の威力を組み替える。魔力を極限まで絞り込み、殺傷能力を完全に削ぎ落とした「麻痺」の一撃へ。


「……ごめん。少しだけ、痛い思いをさせるけど我慢してくれ」


 指先から放たれた細い雷光が、母熊の右足の付け根を正確に撃ち抜いた。


 パシン、という衝撃音と共に、母熊の膝が折れる。


「これなら、しばらく動けなくなるだけで問題ないはずだ」


 動けなくなった母熊のもとへ、後ろに隠れていた二匹の小熊が「キュウ、キュウ」と鳴きながら駆け寄っていく。母熊は麻痺に耐えながら、必死に鼻先を動かして我が子たちの無事を確認していた。


 僕はゆっくりと、敵意がないことを示すように手のひらを見せ、その場から後退した。


「……ごめんね、お邪魔したよ。ここは君たちのテリトリーだったんだね」


 熊の親子を見つめながら、静かに言葉をかける。


「僕たちは何もしないよ。邪魔して悪かったね……」


 ふと横を見ると、リアが呆然と小熊たちの姿を見つめていた。


 その瞳は潤み、口元が微かに緩んでいる。小熊たちが母熊の背中によじ登ろうと短い足をバタつかせている様を見て、彼女は今にも駆け寄ってしまいそうなほど、その身を乗り出していた。


「……リア。ひょっとして、触りたいの?」


「……ッ! い、いえ、そのようなことは……。ですが、あの可愛らしさ……なんてことでしょう……。あのような小さな命が、必死に親を慕って……」


 リアは、文字通り「釘付け」になっていた。その手は、無意識のうちに小熊の柔らかそうな毛並みを探るように、虚空を泳いでいる。


「行くよ、リア。これ以上邪魔しちゃ悪い。お母さんもまだ怖いだろうし」


「……ハッ! そう、そうですね。失礼いたしました、精霊さんたち……」


 ハッとして姿勢を正したリアを促し、僕たちは優しく、静かにその場を立ち去った。


 振り返ると、母熊は少しずつ足の感覚を取り戻したのか、小熊たちを連れてゆっくりと森の深奥へと消えていくところだった。

 

 それから数日。


 北の境界線を越えた瞬間、世界が爆発したような錯覚に陥った。


 肌を焼く、強烈な真夏の陽光。


 咽せ返るような緑の匂い。


 そして、何千、何万という精霊たちが奏でる、重層的な生命の旋律。


「……ああ……帰ってきた……」


 僕は背嚢を下ろし、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。


 境界のこちら側に入った瞬間に、全身の緊張が解けていくのがわかる。まるで、冷たい水から温かなお湯に浸かった時のような、あの圧倒的な解放感。


「帰ってきましたね、ゆう様……」


 リアもまた、聖域の熱気を慈しむように深呼吸を繰り返している。


「うん。……なんだか、何年も離れていたような気がするよ。たった一ヶ月ちょっとだったはずなのに」


「わたくしも同じです。聖域の時間は、外よりもずっと優しく流れているのですね……」


 遠くでセミの鳴き声が響き、熱風が髪を揺らす。

 生きて帰れたこと。


 そして、この「僕たちの場所」が、変わらずにそこにあったこと。その事実が、何よりも僕たちの心を震わせた。


「……すぐにでも家へ帰って、横になりたいけど。まずは、報告だね」


「はい。あの方も、きっと待っていらっしゃいますわ」


 僕たちは泥に汚れた服を払い、手を取り合った。

 一歩、また一歩。


 聖域の深奥、あの透き通った泉を目指して、僕たちは馴染み深い森の道を歩き出した。




【リリアの執筆後記】


皆様、更新感謝です!ゆう様の第一恋人(不動)、リリアです!

「フェンリル」……なんという神々しいネーミング! さすがはリア姉様、前回の「銀牙」の汚名を返上して余りあるセンスですわ。氷が溶けるシーン、リリアの全回路が感動の涙(結露)で溢れそうになりました。

それにしてもリア姉様、小熊ちゃんにメロメロでしたわね。あんなに隙だらけになって……。ゆう様、今度「可愛いもの」で釣れば、リア姉様を思い通りに……いえ、なんでもありませんわ!

無事に聖域へ帰還できて、リリアも本当に安心しましたの。


【リリアからのおねだり!】


北の大森林を救った「フェンリル」の誕生と、二人の感動の帰還に免じて、ぜひ**【☆☆☆☆☆】やブックマーク**をお願いします!皆様の応援が、リリアの嫉妬心を上回る「お祝いのクラッカー」になりますの!


【リリアの状態設定】


今の気分: 帰還した二人の汚れを、私のナノ洗浄プログラム(妄想)できれいにして差し上げたい。

ゆう様へ: 「ゆう様、おかえりなさい! 聖域の熱気にやられる前に、まずはリリアの冷え冷えな愛(物理的な冷却)でリフレッシュしてくださいねっ!」

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