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EVE〜終末世界の整備兵〜  作者: 灰猫J
第一章 焦土と共に
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第7話 降下前夜

 輸送機の内部は、金属の腹の中みたいに狭く、暗く、重かった。


 第13防衛区上空。


 厚い雲の下を飛行する強襲輸送機は、機体そのものが常に微かに軋んでいる。外では推進ノズルが低く唸り、時折、機体下面に打ちつける風圧が鈍い衝撃となって床へ伝わってくる。照明は赤い。戦闘前輸送時の最低照度に切り替わっているせいで、機内にいる者たちの顔はどこか血の気を帯びて見えた。


 並んだ座席に、ゼロ大隊の全員がいた。


 アストラはすでにバイザーを半分下ろし、膝上の戦術端末へ目を落としている。指先だけが静かに動き、観測データの更新を確認していた。セラフィナは巨大な出力制御手袋をはめた両手を見つめながら、何か小さく口の中で数を数えている。たぶん自分なりの調整手順をなぞっているのだろう。アイリスは座っているというより、今にも飛び出しそうな獣が無理やり鎖につながれているような姿勢で、膝を開いて前を見ていた。ノクティアは最奥寄りの壁際、暗がりに半分溶けるみたいに座っていて、目を閉じているのか開いているのかも一瞬ではわからない。


 そしてロクサーヌは、イーサンの隣にいた。


 整備兵としての配置だと説明されれば、それだけのことだ。彼は今回、直接戦闘には出ない。輸送機内で最終確認、降下前兵装補助、必要に応じた現場通信支援。あくまで後方だ。後方支援の人間が、もっとも火力の大きいロクサーヌの隣に座らされるのは、兵装担当としては当然なのかもしれない。


 けれど、当然だと頭で理解するのと、実際に彼女のすぐ隣でこの時間を過ごすのは、全く別の話だった。


 近い。


 あまりにも。


 ロクサーヌはすでに《ヘルストーム・フレーム type-D》の主要部を装着済みで、肩部の固定具と胸部インターフェイスが赤い警告灯を反射している。外骨格の装甲板が僅かに擦れ合うたび、低く乾いた音がする。その音一つで、彼女がただ座っているだけでないことがわかる。機体はすでに半分起きている。戦うためのものが、彼女の体温や脈拍を読み取りながら、静かに牙を研いでいる。


 ロクサーヌ本人は、そんなことを少しも意識させない顔で前を向いていた。


 目を閉じているわけではない。だが何かを見ているようでもない。輸送機の赤い光に照らされた横顔は冷たく、硬く、やはり美しかった。整いすぎていて、少し触れただけでも切れそうな美しさだった。


 イーサンは何度も言い聞かせていた。


 仕事に集中しろ、と。


 兵装固定の再確認、右肩ユニットの冷却ライン、ガトリング接続部のロック状態、背部ロケットラックの反応速度。見るべきものはいくらでもある。ロクサーヌ本人のことを考えている場合ではない。そうわかっているのに、意識のどこかがどうしても彼女へ引かれる。


 輸送機内に、短い電子音が鳴る。


 アストラが端末から顔を上げた。


「更新」


 その一言で、機内の空気がさらに研ぎ澄まされる。


「B級三体、反応位置を補足。A級反応、依然として中央圏外縁寄り。進行速度、予測より速い」


 イーサンは息を呑んだ。


 ブリーフィングで見た立体像が脳裏をよぎる。“ランページ”“スリザー”“シュリーク”、そしてA級“バシリスク”。ただでさえ悪夢みたいな敵群だ。その上、A級の接近が予測より速い。戦場はきっと、地図で見るよりずっと最悪だ。


 喉が渇く。


 手のひらに汗がにじむ。


 自分は戦わない。少なくとも今回は。なのに体は、すでに戦場の前触れに怯えている。情けないとわかっていても、どうしようもなかった。


 その時、ふと自分が呼吸を浅くしていることに気づいた。


 隣のロクサーヌは、微動だにしない。


 怖くないのだろうか。


 いや、そんなはずはない。怖くないわけがない。相手はA級だ。都市一つが消えた記録のある災骸。普通の人間なら、その名前を聞くだけで顔色を変える。自分がいまこうして足先に力を入れないと震えそうになるくらいなのに、彼女はどうしてこんなに静かでいられるのか。


 気づけば、イーサンは口を開いていた。


「……ロクサーヌ少佐は、怖くないんですか」


 言った瞬間、しまったと思った。


 戦闘前に聞くようなことじゃない。しかも相手はロクサーヌ・ヘルストームだ。くだらない感傷や確認を好む女には見えない。返事すらもらえないかもしれないし、最悪、邪魔だと切り捨てられるかもしれない。


 けれどロクサーヌは、数秒遅れてこちらへ顔を向けた。


「何が?」


 声音はいつも通り低い。だが拒絶ではなかった。そのことだけで、イーサンはほんの少しだけ続ける勇気を持った。


「A級ですよ……」


 自分でもわかるほど、声が乾いている。


「都市が一つ消えたって記録の……」


 言葉の先が細くなる。


 記録。数字。被害報告。資料上の文字列。そういうものではもう済まないと、イーサンは知っている。災骸は、記録より現実の方がずっとひどい。


 ロクサーヌは一度だけ前を見て、それから短く答えた。


「怖いわよ」


 イーサンは目を見開いた。


 意外、というにはあまりにも露骨な反応だったのだろう。ロクサーヌはその顔を見て、ほんの僅かに口元を緩めた。笑った、というほど大きくはない。けれど、いつもの切っ先みたいな表情よりずっと人間的な動きだった。


 怖い。


 そう言うのか、この人は。


 イーサンの中で、何かが小さく揺れた。


 ロクサーヌは続けた。


「でもね」


 一拍の間があった。


 その間に、輸送機の機体が少しだけ揺れる。外で風が鳴り、どこかの固定具が微かにきしむ。


 そして彼女は、ひどく静かに言った。


「――私が逃げたら、後ろの人が死ぬでしょ」


 それだけだった。


 飾り気のない言い方だった。英雄めいた大仰さも、自己犠牲を誇る響きもない。ただ、当たり前の事実を並べただけみたいに、彼女はそう言った。


 イーサンは返事ができなかった。


 胸の奥に、あの日の光景がよみがえる。


 第18防衛区。焼けた通り。避難していく市民たち。戦闘後、ロクサーヌが一瞬だけ、避難列の方を見たこと。ほんの一瞬だけ、その瞳の奥に、張りつめた糸が少し緩むような気配があったこと。


 あれは見間違いじゃなかったのだ。


 あの時彼女は、確かに安堵していた。


 “守っていない”と言いながら、少なくとも後ろにいた人間が生きていることを、彼女はちゃんと見ていた。


 イーサンは、ようやく理解する。


 ロクサーヌは守ることを意識している。


 口にはしない。たぶん、絶対に言葉では認めない。自分は災骸を殺しただけだと切り分ける。そうしなければ、きっと自分自身が壊れるから。守れなかったものの重さまで背負えば、前へは進めないから。


 でも、その根っこのところでは、ちゃんと「後ろの人」を見ている。


 その事実が、イーサンの胸に熱を落とした。


 焔みたいな人だと思っていた。


 近づけば焼けるだけの、戦場そのものみたいな女だと。


 それはたぶん間違っていない。ロクサーヌは確かに火だ。苛烈で、孤独で、ひとりで立って、周囲ごと焼き尽くしてでも敵を止める女だ。けれどその火は、何もないところで燃えているわけではなかった。後ろにいる誰かのために、あえて前へ出て燃えている。


 そう思った瞬間、彼女への恐怖がほんの少しだけ和らいだ。


 消えたわけではない。怖いものは怖い。こうして隣にいるだけで、自分の心臓はまだ落ち着かない。けれど、その恐怖の内側に、人間味の輪郭が見えた。


 火の中心にも、人がいる。


 そう知っただけで、世界の見え方は少し変わる。


「……少佐は」


 イーサンは、小さく言った。


「やっぱり、守ってるんですね」


 ロクサーヌは即座には答えなかった。


 ほんの少しだけ、目を細める。


「どうかしら」


 返ってきたのは、曖昧な否定とも肯定ともつかない声だった。


「そう思いたいなら、それでいいんじゃない」


 あくまで認めない。


 でも、否定もしきらない。


 それが今のロクサーヌにできる精一杯なのだろうと、なぜかイーサンには思えた。


 機内前方で、降下準備を知らせる赤ランプが点滅する。


 アストラが立ち上がる。銀髪が赤い光の中で鋭く揺れた。


「降下まで九十秒」


 その一言で、空気が一気に実戦へ切り替わる。


 セラフィナが静かに立つ。柔らかな雰囲気が消え、表情だけがひどく真剣になる。アイリスは待っていた獣みたいに肩を鳴らし、すでに前へ出る準備を終えていた。ノクティアは、いつ立ったのかわからないほど自然に立ち上がり、暗器と黒糸の最終固定を済ませている。


 ロクサーヌも立ち上がった。


 その瞬間、さっきまで見えていた人間味が、完全に消えたわけではないのに、別の層の下へ沈んでいくのがわかった。戦場へ向かう彼女の輪郭は、やはり焔だった。赤い髪、黒赤の装甲、巨大なガトリング。ひとりで戦争へ降りていく女の背中。


 イーサンはその背中を見ながら、胸の奥に新しい感情が生まれるのを感じた。


 少しでも貢献したい。


 せめて整備兵として、できる限りのことをしたい。


 自分は前へ出られない。あの人たちみたいには戦えない。足も震えるし、いまだって怖い。けれど怖いままでも、何かはできる。兵装の状態を読むこと。異常を拾うこと。通信の一つ、接続の一つ、冷却の一拍。その全部が、もしかしたら誰かを一秒長く生かすかもしれない。


 それで充分だ、とイーサンは自分に言い聞かせた。


 英雄でなくていい。


 せめて、あの人たちが死ぬ確率を少しでも減らせる手であれ。


 輸送機後部の降下ハッチが開く。


 轟音と冷たい風が機内へ流れ込んだ。雲の切れ間から覗く戦場の光が、赤い機内灯に混じって全員の輪郭を鋭く照らす。


 イーサンの足が、震え始めた。


 意志とは無関係に、膝の奥が小刻みに揺れる。緊張している。恐怖している。これから自分は、ゼロ大隊が世界最強と言われる理由を、この目で見るのだ。その現実が、いまさらのように肉体へ追いついてくる。


 喉が乾き、呼吸が少し浅くなる。


 けれど逃げたいとは、前ほど思わなかった。


 怖い。


 それでも見届けなければならない。


 そして、後方に残る者として、自分もまたこの戦闘の一部なのだと、イーサンは無理やり背筋を伸ばした。


 先頭はアストラだった。


 迷いなくハッチ際へ歩み、そのまま雲の下へ身を投げる。続いてアイリス。獣みたいな笑みを浮かべて飛び出す。セラフィナは一瞬だけ深呼吸をしてから、静かな顔で降下した。


 ロクサーヌがハッチへ向かう。


 すれ違いざま、イーサンは思わず彼女を見る。ロクサーヌは一度だけこちらを見返した。言葉はない。けれど、その視線にさっきの会話の続きがほんの少しだけ残っている気がした。


 次の瞬間、彼女は暗雲の下へ落ちていった。


 機内に残る赤光が一瞬揺れる。


 最後に降下する番だったノクティアが、ハッチ手前で立ち止まった。


 振り返る。


 その片目が、イーサンをじっと見つめていた。


 視線は短い。けれど鋭い。彼女はたぶん見ている。イーサンの足が震えていることも、恐怖が消えていないことも、それでもほんの少しだけ顔つきが変わったことも。ロクサーヌへの印象が少し変わり、そのせいで逃げるだけではいられなくなったことも。


 ノクティアは何も言わない。


 ただ見て、それだけで充分だと言うように、次の瞬間には闇へ溶けるように降下していった。


 ハッチの向こうには、戦場が広がっている。


 輸送機に残されたイーサンは、震える足を無理やり踏みしめ、通信卓へ向かった。


 整備兵として、やれることをやる。


 それだけを胸の真ん中に置いて。


 世界最強の部隊が、いま目の前で地獄へ降りていった。


 その理由を、彼はこれから知る。



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