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EVE〜終末世界の整備兵〜  作者: 灰猫J
第一章 焦土と共に
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第4話 煤色の人事

 GDFという巨大な組織において、申請書は人間よりも多く生まれ、そして多くが消えていく。


 最前線で兵士が一人死ねば補充申請が上がる。機体が一基壊れれば修繕予算が上がる。防壁が崩れれば資材の再配分、避難路が増設されれば人員移管、災骸出現予測の更新があれば観測機材の再割当て。世界が壊れていく速度に比べれば、そのすべてはあまりにも遅い。だが組織は書類でしか動けない。だから滅びかけた世界でも、紙とデータと承認印だけは、しぶとく残り続けた。


 アストラ・ヴィレルガンから上げられたイーサン・クロークの配属申請も、そのうちの一件にすぎないはずだった。

 本来なら、ゼロ大隊への人員移管は複数の承認段階を要する。戦術兵装総局内部の審査、適合運用局の確認、戦力再配置委員会の予備審査、その後にようやく上級決裁ラインへ至る。ゼロ大隊はただの部隊ではない。GDF全体にとって最終戦力のひとつであり、そこへ人間一人を動かすことは、単なる人事ではなく戦略資産の再編を意味する。

 だから本来、下の局長が一存で通してよい話ではなかった。

 だが、組織というものは、正しい手続きよりも「誰が途中に立っているか」で決まることがある。


     *

 戦術兵装総局・特殊運用管理局。第四行政棟の高層階。外光を遮る偏光窓の奥に、局長室はあった。

 室内は広く、趣味の悪い調度品が整然と飾られていた。壁には古い勲章額、絶滅前の動物皮革を加工したと噂される椅子、そして歴代局長の肖像が規則正しく並ぶ。机上の端末類は一見すれば整理されているが、よく見れば引き出しの奥に私的口座へ繋がる認証端末が隠されている。表の秩序の裏に、腐った水がたまっているような部屋だった。


 その部屋の主、特殊運用管理局長ギデオン・ラスク准将は、申請書を片手で弾くように眺めていた。


 57歳。もとは後方補給監査局の官僚出身で、若い頃は兵站数字の調整能力を買われて頭角を現した男だ。実戦経験はほとんどない。だが、各防衛区の補給契約、整備委託、兵装資材の再配分に食い込み、そこへ必ず自身に近い業者や息のかかった中間監査官を差し込むことで勢力を拡大した。いわば、腐敗の才能で出世した人物だった。


 ギデオン・ラスクは、汚職を露骨に好む男だった。

 賄賂を露見しない形へ変換する手並みは鮮やかで、不要な兵装部品の調達に水増しをかけ、その差額を複数の復旧支援基金へ一度流し、さらにそこから家族名義の公益財団へ寄付として還流させる。防衛区の再建資材選定では、性能より「口の堅さ」で業者を決める。人を殺すことに快感を覚える種類の悪人ではない。ただ、組織と戦争の混乱を、己の椅子を厚くするための資源としてしか見ていない類の人間だった。そういう人間は、平時よりも有事でよく太る。


 彼は申請書の末尾にある名前を見て、鼻で笑った。


「イーサン・クローク」


 口にしただけで価値のなさが滲むような調子だった。

 経歴を流し読む。施設育ち。両親不明。士官学校卒。以後、地方防衛区の下級整備兵。勲功目立たず。研究業績なし。推薦歴なし。指揮歴なし。


「凡庸だな」


 机の向こうに立つ部下が口を閉ざしたまま待っている。ギデオンはさらにページをめくり、アストラの添付所見へ目を落とす。

 現場適応型精密調整技能。特殊兵装継戦能力への寄与。潜在的戦術価値が高い。速やかな異動審査を要請。


「ふん」


 吐き捨てるような音を立て、彼は書類を机へ放り出した。


「アストラ・ヴィレルガンも見る目が落ちたものだ」


 局長付事務官を兼ねる副官が一瞬だけ眉を動かす。だが何も言わない。局長の前で余計な反応を見せることは損にしかならないと、皆が知っていた。


 ギデオンは椅子の背にもたれ、指先で机を叩く。

 ちょうど前日、指導部から特殊運用管理局を通じて通達が下りていた。ゼロ大隊への補給・補充は必要最小限に抑制すること。これは明文化された命令ではない。もっと曖昧な、だが逆らえない種類の空気だ。ゼロ大隊は使い捨てる前提で回す。ならば手厚く守る必要もない。そんな上の意向が、行間から透けて見える通達だった。

 普通なら、その空気に合わせて申請を握り潰す。


 だがギデオンは別の計算をした。

 ここで自分が「最低限の補給方針に沿いながら、余計な大物人事を通さず、小さな雑魚一匹でゼロ大隊を黙らせた」と見せられればどうか。上は喜ぶ。不要な追加物資も要求せず、正式ルートの重い決裁も回さず、末端の人員一人で問題を処理した。そういう“手際のよさ”は、こういう時に妙に評価される。

 しかも相手はイーサン・クロークだ。大物ではない。適合者でも研究者でもない。ただの下級整備兵。自分の専決で十分だ。むしろ、こんな小物をいちいち上へ回す方が間抜けに見える。


「局長」


 部下が慎重に口を開いた。


「本件は本来、ゼロ大隊関連人事に当たります。正規ルートですと、少なくとも総局次長級の予備承認を――」


「知っている」

 ギデオンは遮った。


「だが、これは“ゼロ大隊への特別戦力補充”ではない。“現場補助整備要員の臨時異動”だ。文面の整理でどうにでもなる」


「ですが、申請元がアストラ・ヴィレルガン少佐である以上、後で照会が――」


「なら来た時に説明すればいい」

 ギデオンは口の端をつり上げた。


「末端の整備兵一人だ。誰が気にする」


 その笑みには、自分だけが仕組みを理解しているという甘い酔いがあった。組織の穴を“使える”側の人間特有の顔だった。


「承認ラインは私の専決扱いで通す。分類は補充人員再配置。理由は現場整備要員不足への対応。添付のアストラの所見は簡略化しておけ」


「局長、それは……」


「君はいつから私に法務講義をするようになった?」

 声音がひやりと冷える。

 部下は口を閉ざした。

 ギデオンは満足げに申請端末へ署名コードを走らせた。手続きは速かった。彼はこういう時だけ異様に仕事が早い。自分の得点になると読んだ案件に限って。


「これでいい」

 署名完了の表示が灯る。


 イーサン・クローク、第18防衛区より第零機動殲滅大隊付整備補助要員として臨時配属。承認者、特殊運用管理局長ギデオン・ラスク准将。

 正式ルートを飛ばした、半ばねじ込みのような異動だった。

 だがギデオンは気分がよかった。これでまた上層部の覚えがよくなる。自分は無駄な物資要求を抑え、ゼロ大隊の小言にも実務的に応じる有能な局長として見られるだろう。彼はその幻想にうっとりしていた。

 腐敗した男ほど、自分を有能だと思い込みやすい。


     *

 その事後報告がミレイユ・カスティール大将の机に届いたのは、二日後の夜だった。

 防衛作戦総局長室は、第四行政棟の局長室とは空気が違う。装飾は少ない。壁には古い作戦図と、各戦区の現況パネルがあるだけだ。机も実務本位で、余計な美術品は一つもない。そこにあるのは権威の誇示ではなく、判断を下すための空間だった。


 ミレイユは資料を読んで、最初は眉をひそめただけだった。

 ゼロ大隊への整備補助要員追加。イーサン・クローク。局長専決処理。ギデオン・ラスク准将の承認。


「……何を考えているの、あの男は」

 呆れが先に出る。


 ギデオンが勝手な専決をしたこと自体は驚かない。あの男は日頃から書類の分類をねじ曲げて、自分に都合のよい近道を作る。問題は、その雑な専決が珍しく「ゼロ大隊に関する案件」で行われたことだった。普通の官僚なら怖くて手を出さない。ゼロ大隊は上の意向が複雑に絡む。そこへ勝手に指を突っ込むのは愚かだ。


 ミレイユは本来、この時点で差し戻してもよかった。

 だが添付された簡略所見の片隅に、アストラの原文から削りきれていない気配を感じた。現場適応型精密調整、継戦能力寄与、高度適性。さらに防衛区側の稼働推移資料が雑に添えられている。ギデオンは内容を読み込まずに通したのだろう。だから逆に、重要な数字が残ったままだった。


 ミレイユは端末を引き寄せる。

 彼女はこういう時、速い。

 政治家として天才である人間は、派手な演説をする者ではない。数字の海から価値ある針を抜き取り、敵がその意味に気づく前に盤面を組み替えられる者だ。ミレイユ・カスティールはその種の天才だった。前線運用の実務を知り、住民保全の現実を知り、そして官僚機構のどこが詰まり、どこが腐り、どこを叩けば組織全体が震えるのかを、直感ではなく構造で理解している。

 彼女はイーサン・クロークの記録を呼び出した。


 十分後には、背筋を伸ばしていた。

 二十分後には、椅子から立ち上がっていた。

 三十分後には、口元から完全に笑みが消えていた。


「これは……」


 驚嘆、だった。

 心の底からの。


 ゼロ大隊を陰で支援してきたミレイユは、兵装の整備がどれほど戦力維持に直結するかを、誰よりよく知っていた。アルベルト・グランハイトは総司令官として全体最適を優先する。ヴァルター・シュタインは技術資産として殲滅兵を計算する。どちらも間違いではない。だが、現場で壊れていくものを“長持ちさせる”感覚は薄い。


 ミレイユは違った。

 若い頃、彼女は住民移送と防衛線運用の両方を握らされた戦区参謀だった。守りたい者を守るには、兵があと一日持つ必要がある。砲座があと一時間もつ必要がある。補給車列があと一往復生きる必要がある。そういう「少しだけ長く持たせる」知恵が、都市を一つ救うのだと骨身に染みて知っている。


 だからこそ、イーサンの整備ログの価値がすぐわかった。

 これはただの器用な整備兵ではない。

 防衛線そのものの寿命を延ばせる男だ。

 しかも無自覚に近い形で、それをやっている。


 ミレイユは思わず低く息を吐いた。

「アストラ、よく見つけたわね……」


 そして同時に、別の結論へ到達する。

 ギデオン・ラスクは、この案件の価値に気づいていない。気づかないまま、専決で通した。つまり、手続き違反の証拠を自分の署名付きで残しながら、ゼロ大隊にとって極めて重要な資産を勝手に動かしたことになる。


 使える。


 そうミレイユは即座に判断した。

 純粋な優しさだけではない。彼女は現実的だ。ゼロ大隊を守る理由の半分は、人類最後の打撃力を少しでも長持ちさせたいからだ。兵器としてのゼロ大隊を延命する。それが最終的により多くの住民圏を生かす。その冷静な計算が、彼女の根底にある。


 だが今回は、その計算に副産物がついてきた。

 組織の浄化だ。


 ギデオン・ラスクのような男は、戦時官僚機構の膿である。放置すれば補給線を腐らせ、必要な場所へ必要なものが届かなくなる。何より、自分の小さな得点欲しさでゼロ大隊の周辺に触れていい人間ではない。

 ミレイユはすぐに三つの回線を開いた。


 一つ目は監査室。ギデオン名義の専決処理一覧を過去6か月分、静かに洗い出させる。


 二つ目は法務審査局。特殊運用管理局における承認区分逸脱案件の有無を照会する。


 三つ目は自分の腹心である人事参謀。ギデオンの後任に据えられる、汚れていない中堅官僚の名前を複数挙げさせる。


 すべてを一時間以内に動かし終えた時、ミレイユの机上にはすでに次の盤面ができていた。

 これが彼女の政治だった。


 大声で粛清を宣言するのではない。相手が自分の失点に気づく前に、逃げ道も反論の余地も消しておく。違反を違反としてではなく、組織運営上の当然の整理として処理する。誰にも「これは権力闘争だ」と言わせない形で、不要な人間だけを盤外へ押し出す。


 三日後、ギデオン・ラスク准将は、第9内陸後方資材監査局付への異動を命じられた。

 表向きの理由は、専決権濫用および承認区分の恣意的運用、加えて複数の補給契約再点検に伴う管理責任である。表現は柔らかい。だが実質は左遷だった。前線からも中央からも遠ざけられ、今後二度とゼロ大隊や特殊運用へ口を挟めない位置への追放。

 ギデオンは抗議した。自分は現場のために迅速な判断をしたのだと。上の方針に沿っただけだと。だが、その全ては記録の前で薄かった。署名は彼自身のものであり、違反も彼自身の判断によって行われている。ミレイユは一度も表へ出なかった。ただ必要な資料が必要な順序で並び、彼は自分の重みで沈んでいった。

 それが、天才的な政治能力というものだった。

 血を流さず、声を荒げず、それでも盤上の不要物を確実に消す。


     *

 処理を終えた夜、ミレイユは総局長室の窓辺に立っていた。

 偏光ガラスの向こうには、都市の灯が見える。灯といっても、かつての繁栄の光ではない。防壁上の警戒灯、輸送路の誘導灯、低く沈んだ防空照明。暗い世界が、せめて完全な闇にならないように残している明かりだ。

 遠い地平線は、灰色に濁っていた。

 その向こうに、いくつの都市がまだ息をしているのか。いくつがもう地図の上だけの名前になったのか。ミレイユは把握している。把握しているからこそ、感傷に溺れない。


「ゼロ大隊……」


 独り言が、ガラスに薄く反射する。

 彼女はゼロ大隊を愛してはいない。そんな言葉で片づく対象ではない。あれは兵士であり、兵器であり、使えば使うほど削れていく最後の刃だ。できるだけ守りたいと思う一方で、いつか使い潰さねばならない時が来ることも知っている。


 それでも。

 それでも、あれは今の人類に残された最後の希望だった。


「あなたたちが折れたら、そこで終わるのよ」


 誰に向けるでもなく、ミレイユは呟いた。

 住民を守るという感情はまだ彼女の中にある。若い頃ほど純粋ではないが、消えてはいない。子どもの避難列を守るために砲座を残した日々も、老人を一人でも多く移送するために補給車列をねじ込んだ夜も、今なお彼女の判断の底に沈んでいる。

 だが同時に、それだけでは世界は持たないとも知っている。優しさだけで戦線は延びない。希望だけでは防壁は立たない。必要なのは計算だ。冷静さだ。人類があと何日、何か月、何年持つのかを、冷酷に見積もる目だ。


 だから彼女はゼロ大隊を維持する。

 情と理の両方で。

 守りたいから。長持ちさせたいから。最後の刃を、少しでも遅く折らせたいから。

 窓の向こうの地平線は、依然として暗かった。

 だがミレイユの目には、その暗さの中にまだ線が見えていた。細くても、折れそうでも、確かに続いている戦線の線が。


     *

 イーサン・クロークがその話を聞いたのは、数日後の第18防衛区司令部だった。

 呼び出しを受けた時点で、ろくな内容ではないと思った。整備兵が司令部へ呼ばれるのは、事故か処分か、あるいは面倒な臨時配置のどれかだ。自分に勲功が転がり込む人生ではないと、イーサンはよく知っている。

 司令室へ通されると、ラザルス大尉は、思った以上に真面目な顔をしていた。


「座れ、クローク」


「失礼します」


 椅子に腰を下ろしながらも、イーサンの心は落ち着かない。机の上には端末と紙資料が並んでいる。異動辞令、という単語が視界の端に見えた気がした。


 嫌な予感がした。


「単刀直入に言う」

 ラザルス大尉は手元の資料を閉じた。


「お前に、ゼロ大隊への臨時配属命令が出た」


 イーサンは瞬きをした。

 言葉の意味はわかる。だが、理解が追いつかない。


「……は?」


 間の抜けた声が出た。

 ラザリスは責めなかった。むしろ当然の反応だと思っている顔だった。


「第零機動殲滅大隊付整備補助要員。辞令はすでに確定している。拒否権はない」


「ま、待ってください。なぜ俺が」


「こちらが聞きたい」


 ラザルス大尉は肩をすくめた。


「上から来た。理由欄は“特殊兵装運用上の必要による”だ」


 イーサンは言葉を失った。


 ゼロ大隊。

 数日前まで、伝説か災厄のように遠い場所にあった名前だ。その中心には、ロクサーヌ・ヘルストームがいる。あの焦土の女。あの赤い髪。あの恐ろしく美しい戦域殲滅兵。


 なぜ自分がそこへ。

 困惑が先に来る。恐怖もある。場違いにもほどがある。自分は下級整備兵だ。C級兵装が主な担当で、戦果も平凡、経歴も薄い。ゼロ大隊のような怪物たちの集まりに、自分が混ざる余地などない。


「……誤りでは」


「私も最初はそう思った」


 ラザルス大尉は淡々と告げた。


「だが記録は正規だ。今日付で転属処理も済んでいる。準備期間は短い。明朝の輸送機で出る」


 現実だった。

 イーサンは喉の奥が乾くのを感じた。視界が少しだけ遠のく。いつもの整備棟、油の匂い、工具の重み、見慣れた区画。そうした日常が、自分の知らないところで切り離されていく感覚だった。


「何か言いたいことはあるか」

 ラザルスに問われて、イーサンはしばらく黙った。


 ある。ありすぎる。なぜ自分なのか。誰が決めたのか。間違いではないのか。ゼロ大隊で何をしろというのか。自分に務まるのか。第18防衛区はどうなるのか。聞きたいことは山ほどある。

 だが最終的に口をついて出たのは、ひどく小さな一言だった。

「……行くしか、ないんですよね」


「そうだ」

 ラザルスは静かに頷いた。


「そして、これは悪い話ばかりでもない。ゼロ大隊は地獄だが、そこで必要とされるのは名誉でもある」


 イーサンには、その名誉が実感できなかった。ただ、ロクサーヌの姿だけが頭をよぎる。また会うことになるのか。そう思った瞬間、自分でも意外なほど胸のどこかが熱を持った。それが嬉しさだと認めるには、まだ少し怖かった。


     *

 翌朝、出発直前の格納区画で、ハロルドが声をかけてきた。


「イーサン!」


 振り返ると、ハロルドは珍しく気まずそうな顔をしていた。手には工具箱を持ったまま、どう言葉を出すか迷っているのが丸わかりだった。


「……聞いたぞ。ゼロ大隊だってな」


「うん」


「すげえな、お前」


 イーサンは苦笑する。


「全然、実感ないよ。むしろ間違いじゃないかって思ってる」


「それでもだ」


 ハロルドは少し黙り、それから急に目を逸らした。


「今まで言えなかったけどさ」


「何を?」


「お前、本当にすごい奴だよ」


 その言葉に、イーサンは戸惑う。


 ハロルドは続けた。


「俺たちみたいな整備兵って、目立たないだろ。誰かの後ろで、壊れたもん直して、次の戦場へ送り出すだけだ。でもお前が触った兵装、ずっと違ったんだよ。あれで何回、助かった奴がいたかわからない」


 イーサンは何も言えない。


「英雄っていうのは、前で派手に撃つ奴だけじゃない」


 ハロルドは照れ隠しみたいに笑った。


「お前みたいな奴のこと、言うのかもな」


 イーサンはしばらく黙って、それから小さく首を振った。


「わからないよ。そんなの」


「だろうな。お前、そういう奴だし」


 ハロルドは肩を叩く。


「でも、向こう行っても変わるなよ。お前はお前のままでいろ」


 それは不器用な激励だった。けれどイーサンの胸には、妙に深く刺さった。


 英雄、なんて言葉は自分に似合わない。いまだって怖い。ゼロ大隊がどういう場所か考えるだけで胃が重くなる。だが、ハロルドの言葉が全部間違いだとも言い切れなかった。自分の手で支えたものが、確かに誰かの命へ繋がっていたのなら、それは誇っていいのかもしれない。


 それでも、実感は湧かなかった。ただ、輸送機に乗り込む足取りだけが、もう後戻りできないことを教えていた。


     *


 輸送機は、第18防衛区を離れ、灰色の空を進んだ。


 窓の外に見えるのは、防壁の線と、崩れた外縁区画と、遠くまで続く曇天ばかりだ。世界は相変わらず暗い。明るい未来が待っているわけではない。向かう先は、きっと今よりもっと苛烈な場所だ。


 イーサンは座席に身を預け、硬い窓越しに景色を見つめていた。


 不安だった。


 自分がそこで役に立てるのか。あの怪物たちのような兵装を扱えるのか。ゼロ大隊の面々に受け入れられるのか。場違いだと即座に追い返されるのではないか。考え始めると、いくらでも悪い想像が広がる。


 だが、その不安の底に、消せない感情がひとつあった。


 ロクサーヌ・ヘルストームに、また会える。


 あの戦場の中心で、ひとり立っていた女。恐ろしくて、美しくて、激しくて、苛烈で、自分とはまるで違う世界の人間。なのに、なぜか目を離せなかった人。


 再会を思うだけで、胸の奥が微かに熱を持つ。それを恋だと呼ぶには、まだ早すぎる。憧れとも少し違う。ただ、自分の人生が確かに変わり始めている、その起点に彼女がいるのだと感じていた。


 やがて、雲の切れ間の向こうに、巨大な拠点が見えてきた。


 山岳と要塞を無理やり繋ぎ合わせたような、異様な構造物。多重防壁、直上発着用の大型ハンガー、露出した砲座、地下へ潜る搬入口。そこは基地というより、世界の終わりに備えて築かれた墓標みたいだった。


「あれが……」


 イーサンは思わず呟く。


 ゼロ大隊の拠点。


 人類最後の刃が収められた場所。


 輸送機はゆっくりと降下を始める。不安は消えない。むしろ強くなる。だが同時に、あの場所で何かが待っているという予感もあった。恐ろしいものかもしれない。取り返しのつかない変化かもしれない。それでも、目を逸らしたくはなかった。


 窓の向こうで要塞が近づいてくる。


 イーサンは知らず、小さく息を吐いた。


 怖い。


 でも、少しだけ嬉しい。


 その二つの感情を胸に抱いたまま、彼はゼロ大隊の拠点へ降りていった。


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