第9話 最後の一合
ハサン・アル=ラシード中将は、警報の音が嫌いではなかった。
警報というものは、少なくともまだ何かを選べる余地がある時にしか鳴らない。すでに全てが手遅れになった後では、警報は意味を失う。つまり警報が鳴っている限り、戦況はまだ人間の側で数パーセントくらいは動かせるのだ。
エジプト第一支部中央指揮所の天井で、赤い非常灯がゆっくりと明滅していた。
壁面モニターには複数の映像が並んでいる。第一支部西外縁の補助防壁。その近くの貨物ヤードや燃料備蓄区画。西外縁とほど近い南側整備棟。どれも夜の色の中に、火と破壊の線が走っている。カイロ市街の灯はまだ遠くに穏やかだ。だがその穏やかさと、この指揮所内の緊迫が隣り合っている感じが、ハサンには妙に腹立たしかった。
敵は二体。
映像の一つで、高く鎌首をもたげる巨大な影が、西外縁の補助防壁の上へ毒液じみた何かを撒き散らしている。エジプトコブラ型。首のしなりと射程が異常だ。頭部そのものは決して重装甲ではないが、そこへ届くまでに何人死ぬかわからない。
もう一つの映像では、低く幅広い黒い塊が、南側整備棟の車両群を文字通り噛み砕きながら進んでいる。ナイルワニ型。陸戦型としては最悪に近い部類だ。硬く、重く、止まりにくい。そして近づいた者から順番に壊していく。
B級が二体。
しかも一方は中距離制圧、もう一方は重装近接圧殺。組み合わせが悪い。どちらか片方だけでも第一支部の一夜を十分に壊せる相手だというのに、今回はそれが二つ揃っている。
ハサン中将は卓上端末へ手を置き、わずかに身を乗り出した。
「優先はコブラ型だ」
低い声だったが、指揮所全体へ通る。
「ワニ型は遅い。被害を出しながらでも足止めは可能だ。だがコブラ型を放置すると射線と避難路が全部死ぬ」
通信士が一斉にその言葉を各隊へ流す。ハサン中将はそれを確認しながら、モニターの切り替わり方を見ていた。指示が正確に伝わった時の画面の動きと、伝わらなかった時の動きは違う。前線を十年以上やっていると、その違いが手の感覚みたいにわかるようになる。
彼は叩き上げの軍人だった。若い頃はA級殲滅兵として、ナイル流域の都市群とその外縁で戦い続けた。ナイルワニ型に踏み潰された装甲車を何度も見た。コブラ型の腐食体液で仲間の脚が溶け落ちるのも見た。B級個体への「正しい恐れ方」を知らない者が、最初に死ぬ。逆に、その恐れを知った上で、どこへ何を差し込めばまだ人間側の勝率が残るかも知っていた。
だからこそ、いまも指揮所へ座っているだけでは終わらない。
「B級打撃班第一群を西外縁へ。C級第三、第四群を補助防壁内側へ展開。高所は捨てろ」
ハサン中将は次々に言う。
「コブラの首の高さに合わせるな。視界を取りに来られる。下がった上で、面で備えろ。好機に突撃するとしても、頭は狙うな。首の付け根だ」
モニターの一つで、まだ若いB級殲滅兵の分隊長が短く敬礼した。名前までは覚えていない。だがいい顔をしている。恐怖を知っていて、それでも歯を食いしばっている顔だ。
ハサン中将は続ける。
「ワニ型への拘束班を南へ回せ。重火器は足を止めるためだけに使え。倒そうとするな。倒すのは後だ。まず鈍らせろ。工兵班、貨物ヤードの爆砕杭を二列起こせ。進路を狭める」
B級とC級の殲滅兵、総勢三百五十。多いようで、B級二体相手には決して多くない。だが足りないとも思わない。理屈が通る敵なら、まだ人間は戦える。ハサン中将がそう断じられる程度には、この戦場はまだ人間側の理屈で回っていた。
彼は卓上端末を切り、立ち上がる。
副官がすぐ反応した。
「中将」
「出る」
「指揮は――」
「動かしながらでも取れる」
それは虚勢ではなかった。指揮官が後方に籠もっている方が効率的な戦もある。だが陸戦型B級、それもナイルワニ型のような質量戦個体が混じる時は、前線に“踏みとどまる芯”が必要になる。兵は理屈だけでは踏み止まれない。踏み止まっていいと身体で理解するための、目に見える重石がいる。ハサンはそういう戦場を何度もくぐってきた。
「私が前へ出た方が間合いが揃う」
副官は反論しない。できないのだ。この男がまだ、前に立った方が全体の生存率を上げることを、皆知っているから。
*
ハサンがエジプト第一支部の西側外縁へ出た時、夜の空気はすでに別物になっていた。
火の熱と腐食液の臭いが混じり、風が吹くたび喉の奥が焼ける。車両群が横倒しになり、補助防壁の一部は黒く融け落ち、避難通路だったはずの道路には破砕された資材と金属片が散乱している。遠くに見えるカイロ市街の灯は美しかった。だからこそ、ここがその灯のすぐ手前で壊れつつある現実が腹立たしい。
ハサンは、身に纏った黄黒のフレームの背部から愛用の殲滅斧槍を引き抜く。
殲滅斧槍《バハル・アル=ハック》。
長柄の重斧槍。名は「真実の海」。
若い頃、あまりにも何もかも飲み込んでいく戦場の前で、せめて自分が振るうものには真実という名をつけてやろうと思った。安っぽい感傷だと笑われても構わない。長年使い続け、何度も改修し、いまでは彼の体そのもののように馴染んでいる。最新の兵装ほど洗練されているわけではない。だが、彼の踏み込みと間合いには、これが一番合う。
前方で、エジプトコブラ型が首をもたげた。
異様に長い。上半身だけで三階建ての建物の高さへ届きそうな勢いだ。外殻は黄土と黒のまだらで、光を受けると乾いた鱗のように鈍く反る。頭部そのものは意外なほど細い。だがその細さが不気味だった。あれだけ長い首と、あれだけ速い刺突を支えられるという事実そのものが、構造として間違っている。
コブラ型の口腔が開く。
「回避!」
ハサンが怒鳴るより早く、前線のC級殲滅兵たちは車両残骸と防壁の裏へ飛び込んだ。よく訓練されている。直後、圧縮噴射めいた腐食液が一直線に走り、補助防壁を斜めにえぐった。コンクリートが泡立ちながら崩れ、遅れた兵の肩が一瞬で溶ける。悲鳴。だが悲鳴を気にしている暇はない。
「高所を捨てろ! 下だ、下へ残れ!」
ハサンは走りながら命じる。
高い位置は一見射線が通る。だがコブラ型の高さとしなりを相手にする時、高所はむしろ死に場所だ。首を振られた瞬間にまとめて消える。低く、広く、遮蔽を多用しながら残る方がいい。
B級殲滅兵の打撃班第一群が左右へ開く。
コブラ型は頭部を狙わせるのが一番楽だ。巨大で、視覚的にもそこへ引き寄せられる。だが頭は囮に近い。本当に切るべきは、首の付け根。あの長さを支える連結部だ。そこへ同時に差し込めれば落ちる。しかし一方向からだけでは、しなりと刺突で皆殺しにされる。
C級部隊の面制圧が始まる。
重機関砲、対災骸散弾、爆砕杭の連続起動。全部がコブラ型の頭部へ向かうわけではない。視界を奪うための火力だ。埃と煙と破片で、あの異様に高い視点を少しでも曇らせる。
コブラ型は苛立ったように首を振り、横薙ぎの刺突を二度放つ。一人、二人と吹き飛ぶ。だがC級部隊は崩れない。崩れないまま、下がるべき者は下がり、撃つべき者だけが残る。
ハサンはそこで初めて、小さく安堵した。
まだ、理屈が生きている。
「今だ!」
彼の怒号と同時に、左右からB級殲滅兵たちが飛び込んだ。
近接用ブレード、突撃槍、電磁破砕斧。狙うのは全員同じ箇所だ。首の付け根、その連結部。コブラ型が身をひねる。だが視界が曇っている。首を持ち上げるタイミングがわずかに遅れる。
一人が牙に刺される。
だが、二人目と三人目が届く。
外殻が裂け、黄黒の体液が噴く。コブラ型は咆哮にも似た音を上げ、首を大きく振り回す。B級兵が一人、防壁へ叩きつけられる。もう一人が脚ごと吹き飛ぶ。それでも連結部への攻撃は止まらない。
「押し込め!」
ハサンが吠える。
C級部隊がさらに面制圧を重ねる。爆砕杭が補助防壁の基部へ突き立ち、破片の幕を作る。コブラ型の首がついに低くなる。その瞬間、別方向から飛び込んだB級殲滅兵が斧槍を深く差し込み、続いてもう一人が核のある場所に電磁破砕杭をねじ込んだ。
音が、変わる。
硬い外殻が裂ける音ではない。長いものが支えを失って、内側から折れ始める音だ。
コブラ型の上体が、大きく、鈍く傾く。
「離れろ!」
叫びと同時に全員が散る。次の瞬間、巨大な頭部が補助防壁へ叩きつけられた。コンクリートが割れ、鉄筋が飛び、砂埃と腐食液の霧が夜へ上がる。
エジプトコブラ型は黒い体液を撒き散らしながら動きを止める。
終わった、とはハサンは思わない。
思ってしまった兵士はそこで死ぬからだ。
「ワニ型へ切り替えろ!」
彼はすぐに声を飛ばした。
*
ナイルワニ型は、コブラ型よりもわかりやすく、そしてわかりやすいぶんだけ質が悪かった。
低く重いが、速くは見えない。だが止まらない。
補給車両を三台まとめて押し潰し、防壁の残骸を噛み砕き、そのまま前進して来る。全身を覆う外殻は湿った石みたいに鈍く光り、背部は何重にも盛り上がり、前脚の鉤爪は舗装ごと抉る。頭部の横幅も深さも異常で、顎が閉じるたびに周囲の空気が鳴った。
これを正面から止めようとすれば、人間の側が先に砕ける。
ハサンはそれを身体で知っている。
「足を殺せ!」
彼は前線へ走りながら叫ぶ。
「背を狙うな! 顎の間合いに入るな! 前脚と胴の噛み合わせだけを壊せ!」
若い頃、一度だけ正面から顎を狙って仲間を二人失ったことがある。顎自体は破砕できても、その間に全身の回転で何人も持っていかれる。
重火器班が爆砕杭を連続起動し、ワニ型の進路前方へ浅い凹みを作る。完璧な罠にはならない。ほんの一瞬、踏み込みが浅くなればそれでいい。
ワニ型が吼えるように口を開き、補助燃料タンクへ噛みついた。爆発。炎が上がる。だがその火の中を、さらに前へ出てくる。熱に強い。あるいは気にしない。
C級兵が一人、二人と跳ね飛ばされる。B級兵が横から前脚へ斬り込み、外殻の継ぎ目へ爆砕を入れる。効いているが、まだ沈まない。
「そこじゃ足りん!」
ハサンは斧槍を構えたまま前へ出た。
彼の役割は単純だ。重心の変化を一番近くで読み、兵が入るべき「本当の間」を見つけること。ワニ型の恐ろしさは、硬さよりもむしろ噛み合い方にある。前脚の踏み込み、胴体の捻り、尾部の返し、その全部が連動して初めて本当の質量戦になる。だから一箇所だけを壊しても意味が薄い。連動そのものを崩さなければならない。
ワニ型が左へ体を振る。
来る。
「右前脚!」
ハサンの声に合わせて三名のB級兵が飛ぶ。鉤爪が振り下ろされ、二名が弾かれる。だが一人の槍が前脚基部へ深く入る。ハサンはその瞬間を待っていた。ワニ型の体が、ほんの少しだけ沈む。
そこへハサン自身が踏み込む。
《バハル・アル=ハック》の槍穂がまず深く差し込まれ、続いて斧頭がねじ込まれる。狙うのは核そのものではない。核へ至る最短経路だ。若い頃、何体もの陸戦型を相手取って覚えた“嫌な手応え”が、斧槍越しに腕へ返る。
まだ浅い。
足りない。
ワニ型が顎を返す。ハサンは半歩だけ外し、槍を引き抜かずに柄ごと体重をかける。背後から別のB級兵が爆砕杭を差し込み、さらにC級部隊の重火器が前脚へ集中する。
沈め。
沈め。
もう一段だけ。
ワニ型の体勢がついに崩れた。ほんの数度、頭が下がる。それで十分だった。
ハサンは斧槍を深く突き込み、槍穂を核へ届かせる。手応えが変わる。生体反応の中心へ、冷たい金属が触れたとわかる。
「今だ!」
自分で叫びながら、彼は斧頭を全力で抉り込んだ。
核が砕ける。
重いものが、ようやく倒れる音がした。
ナイルワニ型B級災骸は、黒い血を垂れ流しながら地に沈む。
その瞬間だけ、前線の空気が変わる。
終わった、という感覚が、じわじわと部隊の中に広がっていく。B級災骸二体。エジプト第一支部の防衛線へ同時侵攻した悪夢みたいな敵。死者も負傷者も出たし、施設もかなり壊れた。だが、守り切った。そう言っていい結果だった。
ハサンは《バハル・アル=ハック》を地面へ突き立て、一度だけ深く息を吐いた。肺の奥が熱い。古傷が軋み、腕の感覚も鈍い。それでも立てる。部下の奮戦のおかげでまだ立てると思える。
「……よくやった」
近くにいたB級兵へ短くそう言う。若い兵士は血で汚れた顔のまま、歯を見せるように笑った。ああいう顔を見るたび、ハサンはまだ前に立つ意味が残っているのだと思う。
指揮所からの報告が入る。西外縁の被害、燃料備蓄区画の消火、負傷者の回収、避難路の再確保。全部、次にやらなければならないことばかりだ。戦闘が終わっても、仕事は終わらない。軍人の夜なんてそういうものだ。
だが、それでも。
普通の戦争なら、ここで区切りがつく。
そういう勝ち方だった。
*
最初に異変に気づいたのは、誰だったのか。
あとで思い返しても、ハサンにははっきりしなかった。
音かもしれない。
あるいは、風の止まり方。
あるいは、兵士たちの中に一瞬だけ走った、理由のない寒気。
とにかく何かが変わったのだ。勝ったあとの戦場にはあるはずの“緩み”が、急に理不尽に踏み抜かれたみたいに潰れた。
ハサンは顔を上げる。
第一支部中央棟の、半ば壊れた外壁の上。
そこに、神が立っていた。
ウェプワウェト。
犬頭。細長い輪郭。双剣。夜の火を背にしても黒く見える身体。そして何より、右手がある。ハサンはまだ知らないが、ミニヤでアイリスに切り落とされたはずの右腕が、すでに再生しきっていた。
ハサンの胸へ、疲労とは別種の冷たさが落ちる。
これが、神話型。
これが、エジプト第三支部を一夜で消した個体。
ウェプワウェトは何も言わない。
ただそこに立っているだけなのに、戦場全体の意味が変わる。B級二体との戦いで成立していた理屈が、一瞬で薄くなる。あれほど苦労して守った防衛線の形が、急に紙細工みたいに見えてしまう。
「全隊、再編――」
ハサンは命じる。だが命じながら、無理だと半分では知っていた。
兵はもう疲弊している。C級もB級も、さっきまでの戦いで削れすぎた。ナイルワニ型とコブラ型へ勝てたこと自体は本物だ。誰も弱くはない。だがその本物の疲労を抱えたまま、ウェプワウェトへ間に合う隊列など、この短時間では組み直せない。
それでも命令は出す。
「面で残れ! 密集するな! 射線を――」
最後まで言い切る前に、一列目が消えた。
消えた、という表現が一番近い。
斬られたのは見えた。だがどこからどこまでが斬撃だったのかがわからない。兵士が三人、五人、まとめてその場で上下に真っ二つに崩れ、遅れて背後の資材壁が斜めに割れた。ウェプワウェトが双剣を振ったようにも見える。だが実際に兵を殺したのは、その剣ではない。空間そのものへ走った“面”だ。
疲弊したB級・C級殲滅兵たちでは、反応が一歩遅れる。
射線は組まれる。だが意味が薄い。
隊列は広げる。だが広げた範囲ごと斬られる。
遮蔽に入る。だが遮蔽ごと切断される。
理が、無意味になる。
いや、違う。理が無意味なのではない。ウェプワウェトがその理の外側にいるのだ。
第一支部が再び壊れ始める。
せっかく守りきった外縁防壁が、今度は別の角度から食い破られる。整備棟の壁が縦に裂ける。裂けた車両がまとめて転がる。負傷者搬送ルートが横薙ぎに切り抜かれ、搬送されていた兵士たちが一瞬で死ぬ。第一支部の兵たちは弱くない。むしろ強い。直前にB級二体を倒したのだから。だが相手が違いすぎる。
ハサンはそこで理解した。
これは「持ちこたえる戦闘」ではない。
一拍でもいい。退避の時間を作るしかない。
彼は《バハル・アル=ハック》を引き抜いた。
「全員、下がれ!」
怒鳴る。
「負傷者を引け! 外縁を捨てろ!」
副官が何か叫ぶ。おそらく中将は下がるべきだという類のことだろう。しかし聞いている余裕はない。ここで自分が前へ出なければ、兵士たちは下がる隙すら持てない。
ハサン・アル=ラシードは、将軍である前に兵士だった。
いや、正確には、いまでも兵士だった。階級や肩書はその上に乗っているだけだ。前線で誰が何秒稼げるかという問いの前では、将軍であることと兵であることは分かれない。
ウェプワウェトへ向けて走る。
腰の古傷が軋む。肺が熱い。脚は重い。若い頃のような加速ではない。それでも間に合う。間に合わせる。
ウェプワウェトの視線がこちらへ向いた。
その視線に、怒りも愉悦もない。ただ“少しの脅威”として認識された冷たさだけがある。人間の将軍が、自分に切りかかってくる。その事実だけを受け止めている目だ。
ハサンは息を殺し、間合いへ入る。
一合目。
ウェプワウェトの双剣が来る。速い。だが完全に見えないわけではない。A級殲滅兵として生き延びてきた身体が、危険の輪郭だけはまだ掴める。
斧槍で受け流す。
真正面からぶつければ折れる。だから半身を切り、斧頭と柄で滑らせる。火花が散り、腕へ痺れが走る。そのまま槍穂を返し、犬頭の喉元へ届かせる。届く寸前までいく。
――打ち合えた。
ハサンはその事実を、まるで他人事みたいに感じる。神話型と、一合。たったそれだけでも、誇っていいのかもしれない。だが誇っている暇はない。
二合目。
差はそこで一気に露わになる。
ウェプワウェトの体がずれた。いや、ずれたようにしか見えない。双剣と同時に、また“面”が走る気配がした。ハサンは半歩遅れる。遅れた時点で終わりだ。
胸元が裂ける。
痛みより先に、熱が来た。内側から何かが溢れ、息が半ば消える。視界が低くなる。自分が倒れ込んでいるのだと理解するまで、一瞬かかった。
地面が近い。夜の匂いが濃い。血の味が口に広がる。
終わりか、とハサンは思う。
だがその時、夜空の向こうに新しい灯が現れた。
輸送機だった。
遠く小さい。けれど見間違えない。エジプトの夜の上を急いでくる、白い灯火。ミニヤへ向かったはずのゼロ大隊。その機が、カイロへ戻ってきている。
遅かった、とはハサンは思わない。
むしろ、間に合った、と感じた。
あれが来るなら。
あの英雄たちが来るなら。
まだ終わらない。
胸から血が溢れ、意識が急速に遠のいていく。その中で、ハサンは唇を動かした。
「……後は、任せた」
誰に向けた言葉かは、自分でも半分わからない。ゼロ大隊へ。カイロの兵たちへ。あるいは、この都市そのものへ向けたのかもしれない。
輸送機の灯は、夜の中で妙に真っ直ぐだった。
その光を最後に見たところで、ハサン・アル=ラシード中将の意識は、暗い海へ沈むように静かに落ちていった。




