第6話 知らなかった夜
ミネルヴァは、夜になると一つの都市みたいに見える。
それは以前、イーサン・クロークが初めてこの海上要塞を遠くから見た時にも感じたことだった。黒い海の上に、鋼鉄の山のような構造体が浮かび、その全周に無数の灯が点いている。滑走路灯、誘導灯、整備区画の作業灯、補給コンテナの識別灯、海面に沿って巡る警戒灯。そのどれもが生きるための光であり、休まないための光であり、けれど遠目には旧時代の大都市の夜景のようにも見える。
今夜、その光の中に、長距離輸送艇の白い腹が浮かび上がっていた。
ミネルヴァからエジプトへ向かうための機体だ。区域防衛用の輸送艇よりひとまわり大きく、機体側面には増設燃料モジュールと補給コンテナ接続部が並んでいる。翼の根元には長距離飛行用の補助推進器が追加され、そのぶん機体全体がどこか鈍重に見えた。戦場へ飛び込むためというより、遠くの死地まで、必要なものを抱えたまま黙って飛び続けるための形だった。
ゼロ大隊の面々は、まだ整列というほど形式ばってはいないが、機体の前方でそれぞれの兵装と装備の最終確認を終えつつあった。
ロクサーヌ・ヘルストームは、いつものように最も前にいた。赤い髪を夜風の中でわずかに揺らしながら、補給班が搬入するヘルストーム・フレーム用の最終モジュールを一瞥し、それ以上は何も言わない。彼女は兵装に対して細かく口を出す方ではない。見る。足りていれば頷く。不足があれば、その時だけ短く指示する。それだけだ。
アストラ・ヴィレルガンは、輸送艇と接続された戦術端末へ目を落とし、飛行ルートと到着後の補給動線を確認している。光の加減で銀髪が白く見え、彼女の表情はそれ以上に冷たく見えた。
アイリス・ファングブレーカーはティタノマキア・ブレードを肩へ預けるように持ち、退屈そうに片足へ体重をかけている。だがその目だけは眠っていない。
セラフィナ・ドレッドノヴァはノヴァ・ジャッジメントの補助環を一つずつ指で弾くように確認し、ノクティアは少し離れた影の側で、ほとんど気配を消したまま立っていた。
イーサンは、そんなゼロ大隊の少し後ろにいた。
自分がこの輪のどこに立つべきなのか、まだ完全にはわかっていない。整備兵として必要とされていることは知っている。兵装の調整も、鎌鼬戦の結果も、それが偶然ではないことも、自分なりに理解している。けれどゼロ大隊の“内側”にいるのかと問われれば、まだためらいがあった。
そこへ、足音が近づいてくる。
ミレイユ・カスティール大将だった。
護衛も副官も最低限しか連れていない。軍帽の庇の下にある目はいつも通り鋭いが、今夜はその鋭さの上に、別の柔らかさが薄くかかっているように見えた。彼女は長距離輸送艇の前で足を止め、ゼロ大隊を見回す。
「見送りに来たわ」
まずそう言った。
声は落ち着いている。だがただの儀礼ではない響きがあった。実際に、彼女はゼロ大隊を気にかけているのだろうと、イーサンには素直に思えた。二週間の調整期間を作ったのも彼女だ。研究院の内部資料らしきものまで回してくれた。今回のエジプト行きだって、表向きはともかく、少しでも条件をよくしようとしていたのは明らかだった。
だからこそ、次の空気にイーサンは少し戸惑う。
ロクサーヌは敬礼した。だが、それは必要最低限の角度と速度で行われ、終わるとすぐに手が下ろされる。そこには親しみも、感謝も、もちろん敵意もない。ただ職務上必要なものだけを置いたような敬礼だった。
「ご苦労さまです」
アストラも言う。言い方は丁寧だ。だが声の温度は、整備端末へ向かって話している時と変わらない。
アイリスは露骨に面倒そうに鼻を鳴らし、「わざわざどうも」とだけ言った。セラフィナは一番やわらかい反応を見せたが、それでもどこか一歩引いている。「ありがとうございます」と微笑んではいるものの、心からそのまま受け取っている感じではない。
ノクティアは敬礼すら、遅れて最低限だった。視線は向けている。けれどそこへ寄る気配がない。
冷たい、とまでは言い切れない。
だが温かくは、明らかにない。
ミレイユはその反応を、気にした顔をしなかった。慣れているのだろう。あるいは気にしていても出さないだけかもしれない。彼女はロクサーヌへ短く「状況はカイロ到着後、第一支部から更新を受けるわ」と伝え、アストラへは「分析の優先権はあなたにある」と告げ、セラフィナとアイリスには「補給後の再調整時間は取らせる」、ノクティアには「無理はしないで」と、それぞれ一言ずつを置いていった。
そのどれもが、いかにも気にかけている上官の言葉だった。
なのに、ゼロ大隊の空気は少しも解けない。
イーサンはその不自然さを、どう扱っていいかわからなかった。
ミレイユは最後に、少しだけ視線をイーサンへ向ける。
「クローク」
「は、はい」
「向こうでも頼りにしてるわ」
それだけ言われて、イーサンは反射的に頷く。
頼りにされている、という響きは素直に嬉しかった。しかも彼女は本当に、自分の整備が必要だと思ってくれているように見える。
なのに、周囲の温度が上がらない。
輸送艇への搭乗が始まり、ミレイユは甲板の端でそれを見送る位置へ下がる。夜の風が軍服の裾を揺らし、背後のミネルヴァの灯が彼女の輪郭を白く縁取っていた。
聖母みたいだ、とまでは思わない。
けれど少なくとも、敵には見えなかった。
それなのに、どうしてみんなあんなに冷たいのだろう――。
イーサンの胸には、その疑問だけが残った。
*
輸送艇がミネルヴァを離れる。
窓の外で、海上要塞の灯が少しずつ遠ざかっていく。東京湾上に浮かぶ巨大な人工の夜景は、高度を上げるにつれて一つの光の塊へ見え方を変え、その輪郭の中へ、無数の営みと命令と補給と消耗が詰まっているのだと思うと、妙に現実感が薄くなる。
機内は静かだった。
長距離飛行に入った輸送艇特有の低い振動が、床を通してずっと続いている。戦闘前の赤い照明ではなく、今は航行中の落ち着いた白い灯が点いていた。兵装はそれぞれ固定され、ゼロ大隊の面々も一度席に落ち着いている。アストラは端末を開き、飛行ルートの後半とカイロ到着後の補給計画を確認していた。アイリスは腕を組んで目を閉じているが、眠っているわけではない。セラフィナは窓の外を少し見て、それから自分の手元へ視線を戻した。ノクティアは影に近い席で、やはり静かだった。
このまま黙っていれば、たぶん誰も何も言わない。
それでも、イーサンの中には甲板で感じた違和感がずっと引っかかったままだった。
言うべきではないかもしれない。
けれど、聞かなければわからない気もした。
少し迷ったあと、イーサンは思いきって口を開いた。
「あの」
誰もが、というほどではない。だが少なくとも近くにいたロクサーヌとアストラは視線を上げる。
「なんで……皆、ミレイユ大将にあんなに冷たいんですか」
言った瞬間、少しだけ空気が止まった。
イーサンは慌てて続ける。
「いや、その、変な意味じゃなくて……俺、ただ不思議で。研究院の内部資料みたいなものまで回してくれたし、調整期間だって作ってくれたし、鎌鼬戦の前も、かなり協力してくれてたじゃないですか。なのに、なんていうか……」
言葉が少し絡まる。
「皆、すごく……距離があるというか」
アストラが端末を閉じた。
その動きは静かだったが、会話へ切り替える時の彼女特有の硬さがあった。
「気になるの?」
「……はい」
「そう」
アストラは椅子へ深く座り直し、少しだけ天井の方を見る。言葉を選んでいるのではない。どこから話すのが一番無駄が少ないかを整理しているのだと、イーサンにはわかった。
「別に、憎んでるわけじゃないの」
そう言ってから、彼女は続ける。
「私たちは全員、災骸に壊された都市の孤児よ」
イーサンは一瞬、意味を取り損ねた。
「……え?」
「全員、ね」
アストラの声は平坦だ。
「出身も、防衛圏も、失ったものの形も違う。でも共通してるのは、故郷が壊れて、家族が死んで、何もなくなったあと、GDFに拾われたってこと」
アイリスが目を閉じたまま、鼻で笑うような小さな音を出す。
「拾われたっていうと聞こえはいいけどな」
アストラは否定しない。
「最初の頃は、ミレイユを本当に聖母みたいに思ってた」
その言葉は、少し意外だった。出発前のあの光景を見ている分、余計に。
アストラは、まるでただの記録を読むように続ける。
「実際、助けてもくれたから。避難民の整理、保護、衣食住、教育、治療。あの人がいなかったら、私たちの大半は野垂れ死んでたか、良くて民生施設のどこかで消えてた」
「じゃあ、なおさら……」
「でもそのあとで知るの」
アストラが遮る。
「私たちは、助けられただけじゃなかった。選別もされてた」
その言葉で、機内の空気が少し変わった気がした。
イーサンは喉が乾くのを感じる。
「選別……?」
「EVE細胞への適合率が高い個体として」
イーサンは眉を寄せた。
その言葉は、意味が取れなかった。
「……すみません。EVE細胞?それに、適合率って、何のことですか」
アストラがそこで初めて、少しだけ表情を動かした。驚きではない。確認だ。この整備兵は本当に知らないのだ、と。
「知らないの」
「知りません」
イーサンははっきり答える。
「その言葉自体、俺、聞いたことがなくて……」
今度こそ空気が止まった。
ロクサーヌがわずかに目を細める。セラフィナは端末から顔を上げ、アイリスは閉じていた目を開いた。ノクティアだけは表情を変えない。
数秒の沈黙のあと、アストラが言った。
「本当に何も聞かされてないのね」
「え、いや……」
イーサンはうまく返せない。
聞かされていないのが普通なのか、異常なのか、それすらわからない。
アストラは短く息を吐いた。
「じゃあ、そこから説明するしかないか」
*
「災骸は、EVE細胞っていう未知の細胞が進化した生命体」
最初にそう言ったのはロクサーヌだった。
意外だった。もっとアストラが整理して話すかと思っていた。だがロクサーヌは、飾るのが面倒なのだろう。必要なことを一番短く置く時、彼女の言葉は妙に強い。
「未知、っていうのは、最初に見つかった時点でそうだったってこと。どこから来たのか、どうしてそう振る舞うのか、全部はわかってない」
イーサンは息を呑む。
災骸が、細胞から進化した生命体。
それだけで、今まで自分が見てきた災厄の輪郭が、別の角度から立ち上がる。怪物ではなく、生命。そう考えると余計に気味が悪かった。
アストラが補足する。
「昔は希望だったのよ。その細胞。医療にも軍事にも応用できるって考えられてた。だから名前まで付いてる。EVE」
「イブ……」
「そう。始まりの名前。最悪でしょ」
アストラの口調は冷たいままだ。
「問題は、制御しきれなかったこと。そして地球中に散ったEVE細胞が、人類圏の外で勝手に進化し始めたこと。その結果が災骸」
イーサンの頭の中に、ウェプワウェトや鎌鼬の姿が浮かぶ。
あれが全部、同じ源から生まれたものだというのか。
セラフィナが小さく言う。
「兵装も、同じ」
イーサンは顔を向ける。
セラフィナは言葉を選びながら続けた。
「殲滅兵装って、普通の機械じゃないの。設計段階から、EVE細胞を組み込んでる。だから、神経と出力のつながり方が、人間の常識だけじゃ説明できない」
その瞬間、イーサンの背筋に冷たいものが走る。
理解不能だったセラフィナの兵装の内部構造。
ノヴァ・ジャッジメントの制御系にあった、どうしても理屈の橋がかからない箇所。
研究院の試験ログを見ても、なお「なぜ成立しているのか」が掴みきれなかった部分。
全部が、急に別の光で照らされた。
「だから……」
イーサンの声が掠れる。
「だから、セラフィナ少佐の兵装に、あんな……わけのわからない構造が……」
セラフィナが少しだけ困ったように笑う。
「たぶん、そういうこと」
アストラが続ける。
「使用者側も同じ。殲滅兵装は、人間の神経と筋骨格だけじゃ扱えない。だから使う側も、人体へEVE細胞を取り込まないといけない」
イーサンは、意味を理解するまで数秒かかった。
「……取り込む?」
「移植、注入、浸潤。言い方は色々。要は、自分の身体の中に災骸と同系統の細胞を入れるの」
アイリスが、横から投げるように言う。
「そうすると身体能力が跳ねる。反応速度も、筋力も、耐久もな」
「跳ねるどころじゃないわよ」
アストラが訂正する。
「人間の範囲から外れる」
ロクサーヌは無言だった。だが否定しない。
イーサンの喉が詰まる。
だから、あんなに強いのか。
だから、あんな速度で動けるのか。
だから、あの火力とあの反応へ身体がついていけるのか。
今まで彼は、殲滅兵たちの強さを「訓練された兵士だから」「そういう兵装だから」としか思っていなかった。もちろん異常な世界だとは知っていた。だが、その異常さの根に、災骸と同じ細胞があるとまでは想像したことがなかった。
ノクティアがその時、初めて口を開く。
「……でも、兵装の方がもっと壊れてる」
短い。だが意味は重い。
アストラが頷く。
「そう。EVE細胞を入れて身体能力が上がっても、それで終わりじゃない。殲滅兵装は、その上がった身体能力の限界をさらに引き出そうとする。だから身体負荷が異常に大きい」
アイリスが肩を鳴らす。
「長くは生きられねえってことだ」
その言い方が、あまりにもあっさりしていて、イーサンは逆に息が止まりそうになった。
「長くは生きられない……?」
「人によるけどね」
セラフィナが小さな声で言う。
「でも、普通の人よりは、たぶんずっと短い」
「短命な前提で作られてる、って言った方が正確かもね」
アストラはひどく冷静に言った。
「適合率が高いほど身体能力は上がるし、兵装の限界も深く引き出せる。ゼロ大隊は、その適合率が極端に高い者たちの集まり」
そこまで聞いて、ようやくイーサンは、アストラたちのミレイユに対する態度の意味を理解した。
ミレイユたちは、彼女たちを助けた。
だが同時に、EVE細胞へ高く適合する子供たちを選び出し、殲滅兵として育てた。
助けたのは事実。
けれど、その救済には最初から「使う」意図が混じっていた。
それが、ゼロ大隊とミレイユの距離の正体。
イーサンの視界が少し揺れる。
知らなかった。
何も。
自分が見てきた強さの意味も。
兵装の本質も。
彼女たちが背負わされているものも。
知らないまま、整備していた。
知らないまま、憧れていた。
知らないまま、ただ強い人たちだと思っていた。
その事実に、急に足元が抜けるような感覚を覚えた。
*
「……なんで」
気づけば、そう言っていた。
声は自分でも思っていたより強かった。
「なんで、そんな話を……そんなに普通みたいに、話せるんですか」
機内がまた静まる。
イーサンは止まれなかった。
「だって、おかしいでしょう。災骸の細胞を身体に入れて、人間じゃない力を得て、そのせいで長く生きられないって……そんなの」
言葉が荒くなる。感情の向きが自分でも整理しきれない。ただ、胸の中のものが熱になって出てくる。
「なんで、そんなのを受け入れてるんですか」
責めたいわけではない。
たぶん、そうじゃない。
責めたいのは制度で、世界で、そんなものを“必要”にしている現実だ。けれどその全部をうまく言葉にできず、結果として彼女たちへ向けて問い詰める形になってしまう。
「自分たちが何をされてるか、わかってるんですよね」
そこまで言ってから、やっと自分の声が感情的になりすぎていることに気づく。
でも、引き返せない。
ロクサーヌが、そこで口を開いた。
声は低く、まっすぐだった。
「平然としてるように見えるだけよ」
イーサンは言葉を止める。
「泣いたところで、細胞は抜けない」
ロクサーヌは表情を変えない。
「怒鳴ったところで、寿命も戻らない。戦わなければもっと多く死ぬ。だからやってる。それだけ」
ひどく簡潔だった。
だが、その簡潔さが余計に重かった。
「感情でどうにかなる話なら、とっくにどうにかしてる」
それで終わりだった。
慰めもない。優しさで包もうともしない。ただ現実だけを置く。
イーサンは何も言えなくなる。
彼女たちは平然としているのではない。
平然としているしかないのだ。
そうしなければ、壊れるから。
泣いたところで何も戻らず、それでも次の戦場へ行かなければならないから。
自分は、そこに今さら感情をぶつけてしまった。
恥ずかしさが、遅れて胸に落ちてくる。
「……すみません」
小さく言うのが精一杯だった。
誰も責めない。
けれど、誰もすぐには何も言わない。
その沈黙が、余計に重かった。
*
それからしばらく、機内には妙な壁ができた。
誰かがイーサンを明確に避けているわけではない。ロクサーヌも、アストラも、アイリスも、セラフィナも、あからさまに冷たくすることはない。けれど会話は必要最低限になり、さっきまでと同じ空間にいるはずなのに、イーサンだけが半歩外側へ落ちたような感覚がある。
当たり前だ、と彼は思う。
知らなかったのは自分だ。
しかも、知った直後に感情的になった。
彼女たちからすれば、いまさら何を驚いているのかという話かもしれない。
イーサンは窓の外を見た。
黒い海はとっくに見えなくなっている。機体は長距離航行へ入り、窓の外にはただ夜の空と、その下に断続的に流れる暗い雲の層だけがある。世界は広く、そして暗い。自分が知らなかったことの大きさばかりが、胸の中で膨らんでいく。
その時、隣ではなく、少し斜め後ろの席から、小さな声がした。
「火に近づくと」
ノクティアだった。
イーサンは振り向く。
ノクティアは相変わらず、照明の端で、半分影みたいに座っている。顔はよく見えない。だが声だけが静かに届く。
「熱いのは、普通」
イーサンは一瞬、意味を取れなかった。
ノクティアは続ける。
「熱いって言ったからって、火が嫌いとは限らない」
それだけ言って、彼女はまた前を向く。
比喩だ。
たぶん、慰めのつもりなのだろう。
でも、すぐには掴みきれない。
イーサンは数秒、黙ったままその言葉を頭の中で転がす。
火に近づいたなら、熱いのは当然。
熱いと口にしたからといって、火そのものを拒絶したわけではない。
つまり、自分が驚いて、怒って、感情的になったこと自体は、完全に間違いではないのかもしれない。
ただ、それをそのままぶつければ、次から誰も本当のことを言わなくなる。
けれど黙りすぎてもいけない。
たぶんノクティアは、そういうことを言っている。
イーサンはそこでようやく、少しだけ息を吐けた。
わかりやすい励ましじゃない。
「気にしなくていい」とも、「大丈夫」とも言わない。
でも、それがノクティアらしい。
彼女なりに、橋を架けてくれたのだとわかる。
「……ありがとうございます」
小さく言うと、ノクティアは返事をしなかった。けれど、無視したわけでもないことはなんとなくわかった。
少しだけ、助かった。
完全にではない。
壁が消えたわけでもない。
けれど、この機内で自分だけが完全に浮いてしまったわけではないと知れただけで、だいぶ違った。
*
長い飛行ののち、輸送艇はエジプト上空へ入った。
到着予告の短い電子音が鳴り、アストラが端末を閉じる。機内灯が着陸準備の色へ変わり、窓の外の暗闇がゆっくり別の光を帯び始める。
最初は、地平線の端に滲む金色だった。
それが少しずつ広がり、やがて一本の帯になり、さらに細い光の流れを生み出していく。
カイロの夜景だった。
ミネルヴァの光が「人工の大都市のような要塞の明かり」なら、こちらの夜景はもっと古く、もっと広い。暗い大地の上に、無数の灯が脈打っている。乾いた砂漠の闇の中で、都市だけが長い歴史の層を抱えたまま光っているように見えた。ナイル川に沿って流れる光の帯は、まるで黒い布の上へ銀糸を縫ったように細く美しい。その中心部には、他の灯よりも白く、規則的で、冷たい光の塊がある。GDFエジプト第一支部だ。
あそこへ降りるのだ、とイーサンは思う。
補給のために。
そして、その先には壊滅した第三支部の跡地がある。
ウェプワウェトが現れた場所。
神話の輪郭を持った災骸が、人間の基地を一夜で消した場所。
知らなかった世界の真相を知ってしまったまま、彼はこれからその中心へ近づいていく。
窓の外のカイロは美しかった。
美しいという感想が、こんな夜景へ向けられていいのか迷うほどに。
けれど美しいからこそ、その下にあるものが余計に不気味だった。
どれほど古い文明も、どれほど大きな都市も、この時代にはもう、ただ「まだ壊れていない」ことの証明にすぎないのかもしれない。
イーサンはガラスへ映る自分の顔を少しだけ見て、それからもう一度夜景へ目を戻した。
もう、知らないままではいられない。
ゼロ大隊の強さの正体も、その代償も。
ミレイユとの関係も。
兵装の奥に潜む、災骸と同じ細胞の気配も。
それでも自分は、ここまで来た。
そしてここから先も、きっともう戻れない。
カイロの光がゆっくり近づいてくる。
輸送艇は高度を落とし、巨大都市の夜の上を静かに滑り始めた。
その光景を見つめながら、イーサン・クロークは、自分の知らなかった世界の重さを胸へ抱えたまま、次の戦いへ向かう決意を固めていた。




