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EVE〜終末世界の整備兵〜  作者: 灰猫J
第一章 焦土と共に
2/29

第1話 焦土の女

 2149年3月30日。東京都郊外、防衛線都市〈東外縁第18防衛区〉。


 朝だというのに、空は夜の残骸みたいな色をしていた。

 黒い、と言い切るにはまだ灰が混じりすぎている。灰色、と呼ぶには重すぎる。煤と雲と焼けた鉄の気配を何層にも塗り重ねたような、沈みきった空だった。春のはずなのに風は冷たくなく、ぬるい。湿り気を帯びたその風は、遠くで何か大きなものが腐っているような匂いと、油と、血と、薬品の臭いをいっしょくたにして防衛区のあらゆる隙間へ押し込んでくる。


 イーサン・クロークは整備棟の搬入口で足を止め、思わず空を見上げた。

 見上げたところで何かが変わるわけではない。雲の切れ間に希望が覗くこともないし、今日だけ警報が鳴らずに終わることもない。それでも見てしまうのは、空の色が戦況を知らせる癖がついてしまったからだった。暗すぎる日は、だいたいろくなことが起きない。


「イーサン、何ぼさっとしてる。運搬車、通すぞ」


 怒鳴られて、彼は慌てて脇へ寄った。小型の弾薬搬送車が、耳障りなモーター音を立てながら脇を抜けていく。積まれているのはC級殲滅兵装用の交換パーツと冷却材、それに予備の制御ユニットだ。見慣れた荷姿だった。彼が普段触るのは、いつだってそのあたりまでだった。C級まで。辛うじて前線で回せる、量産と消耗の境目にいる兵装。整備兵として8年、イーサンが手を入れてきたのはずっとそのクラスばかりだった。


 上を知らないわけではない。資料では見ている。訓練校でも教わった。B級以上の兵装、上級殲滅兵、さらにその先にある第零機動殲滅大隊――通称『ゼロ大隊』。防衛線が崩れたときだけ投げ込まれる、最後の、そしてたいてい最悪の切り札。だが、知識として知っていることと、実物に触れたことがあることは別だ。イーサンにはその実感がなかった。彼にとって戦争は、巨大な死の気配でありながらも、ボルトの規格と制御系の誤差と、油に汚れた掌の延長にあった。


 そのはずだった。


「聞いたか」


 整備棟の奥から顔を出した同僚のハロルドが、小声で言った。顔色が悪い。もともと青白い男だったが、今日は唇の色まで抜けている。


「何をです」

「外縁監視線。二時間前から反応が出てる。B級だ」


 イーサンは聞き返さなかった。


 B級。


 その二文字だけで充分だった。体の奥が、ひやりと冷たくなる。C級災骸でも都市の一区画を簡単に壊す。D級災骸の群れでさえ、配備が噛み合わなければ民間区域まで雪崩れ込む。ではB級は。そんなものは、整備棟の若い下級整備兵が考えていい相手ではない。考えたところで、できることがないからだ。


「司令部は?」

「まだ迎撃準備中だ。前線部隊を張り直してるらしい。でも、たぶん間に合わない」

 ハロルドはそう言ってから、ちらりと周囲を見回した。誰も聞いていないことを確認して、さらに声を落とす。

「……さっき上から避難誘導の補助要員を出せって通達があった。整備も関係なしだとさ」

「整備兵まで?」

「B級が本当に来るなら、人手なんて選んでられないだろ」


 冗談めかして言おうとしたのだろうが、声はひきつっていた。イーサンは返事をしなかった。代わりに、無意識に自分の指先を見た。油汚れの染みついた手。細かい部品の癖を覚え、工具の重みには慣れていても、人を守るために誰かを押しのける手ではない。彼は兵士だ。士官学校も出た。射撃訓練も基礎格闘も叩き込まれている。けれど彼は自分のことを、戦う人間だと思えたことが一度もなかった。


 幼いころからそうだった。

 大声や喧嘩が苦手で、争いの中心にいるよりも、壊れた玩具のねじを外している方が好きだった。両親の顔もろくに覚えていない。施設の薄い毛布の匂いと、夜中に泣く子どもの声と、職員の靴音ばかりが記憶に残っている。自分がなぜそこにいたのかも、親がどうしていなくなったのかも、はっきりとは教えられなかった。聞いてはいけないことのように周囲が口を閉ざしたので、いつしか彼も聞かなくなった。代わりに機械へ向かった。黙っていても機械は機嫌を損ねない。正しく触れば正しく応える。壊れている理由も、直る道筋も、ちゃんとある。その誠実さが好きだった。


 だから18歳で士官学校に入り、21歳で卒業したあとも、華々しい前線志願ではなく整備へ進んだ。向いていると思ったし、必要な仕事だと本気で思っていた。地味でもいい。誰かが命を預ける兵装を、確実に動く形にして戦場へ送り出す。それが自分の役目なのだと。


 だが、その役目がいつも安全な場所にあるわけではないことを、彼は今日ほど強く思い知らされたことがなかった。


 区内放送が鳴った。

『防衛区全域に告ぐ。住民は指定避難路へ移動せよ。繰り返す――』


 機械的な女性音声が、必要以上に落ち着いて響く。その均質な声が逆に恐怖を増幅させた。整備棟の外ではすでにサイレンが回り始めている。遠くで装甲車のキャタピラ音が重なり、頭上を低空で迎撃機が通過していった。整備棟の空気そのものがざわめき立つ。誰もが口数を減らし、しかし動きだけは速くなる。工具箱を閉じる音。ロッカーを叩き開ける音。非常ベストを被る音。あらゆる音が少しずつ荒く、切迫していた。


「行くぞ、クローク」

 班長が怒鳴った。

「西避難区画の誘導補助だ。民間人を止めるな、急かせ、だが押し倒すな。老人と子どもを優先しろ。わかったな」

「はい!」


 声が裏返りそうになるのを堪えて返事をする。イーサンは非常ベストを掴み、胸の認証タグを叩きつけるように留めた。整備兵用の灰色の作業服の上に、応急誘導の蛍光ラインが走る。似合わないと、自分でも思った。


 外へ出た途端、都市の顔はもう変わっていた。


 防衛線都市はもともと平穏とは縁遠いが、それでも通常時には秩序がある。人々は警戒に慣れ、避難訓練にも慣れ、限られた空の下で限られた日常を回している。だが本物の警報が入ると、その日常は驚くほど薄く剥がれ落ちる。市場のシャッターは半ば閉じられたまま放り出され、配送ドローンは途中で帰投し、学校帰りの子どもは教師に腕を引かれて走る。通りには車両誘導灯が赤く明滅し、路上広告のホログラムさえ自動的に緊急表示へ切り替わっていた。


 人々の表情にあるのは、一様な怯えではない。むしろそれぞれだった。青ざめて黙り込む者。声を荒らげて兵士に食ってかかる者。祈る者。怒る者。泣く者。何も感じまいとする者。ただ、そのすべての底に、同じ暗いものが沈んでいる。どうせ守れないのではないか、という、長い敗戦の歴史が人類全体に刻み込んだ不信だった。

「こちらへ! 西第三避難路です、走らなくていい、前を詰まらせないでください!」


 叫びながら、自分の声が妙に頼りなく聞こえる。イーサンは通りの角で誘導灯を振り、押し寄せる人波の整理に回った。老人を支え、転んだ子を起こし、荷物を抱えすぎた女性からひとつ荷を受け取って避難路の手前まで運ぶ。目の前のひとりを助けるたびに、別の場所で誰かの悲鳴が上がる。世界全体を救えるわけではない。ただ、自分の手の届く範囲だけが現実だった。


「お兄ちゃん、ほんとに大丈夫?」

 泣きそうな顔の少女に袖を掴まれて、イーサンは言葉に詰まった。

 大丈夫だ、と即答できる人間ならよかったのに、とその瞬間だけ本気で思う。だが彼は嘘が下手だった。だから膝を折って目線を合わせ、できるだけ穏やかな声を作る。

「シェルターに入れば、ここよりずっと安全です。お母さんと、はぐれないで」

 少女は不安そうに頷き、母親に引かれて去っていく。イーサンは立ち上がる。その背に、別の男の怒鳴り声が飛んだ。


「おい! 本当に防げるんだろうな!? GDFはいつも間に合わないじゃないか!」

 中年の男だった。顔を真っ赤にし、半ば錯乱した目をしている。イーサンより胸板も腕も太いのに、その表情には子どものような怯えがあった。

「現在、防衛部隊が――」

「そんなの知ってる! 効かないんだろう、あいつらには!」


 返す言葉がない。

 効かない。完全には。少なくとも通常部隊だけでは。イーサンは黙るしかなかった。男は彼の沈黙を見て、さらに顔を歪める。その視線には責めがあった。だがそれはイーサン個人への怒りではない。この時代そのものへの怒りだ。守ると口にしながら守れなかった人類全体への。


 その時、防衛線の方向から低く重い衝撃音が響いた。


 地面が揺れる。


 ほんの一瞬、誰もが黙った。


 次いで第二波。建物の窓がびりびりと震え、通りの上の非常看板にひびが入る。人々の喉から、小さな悲鳴がいっせいに漏れた。イーサンも振り返る。視線の先、都市外縁を囲む高壁の向こうで、黒煙がひと筋立ちのぼっていた。


 来た。


 頭ではそう理解しながら、心が受け入れるのを拒んでいた。B級災骸。C級までしか触れたことのない自分にとって、資料の中だけの暴威。都市を地図ごと潰すもの。戦術の失敗ではなく、地域そのものの喪失を意味する災厄。


『警報。警報。外縁第七防壁に高出力侵徹反応。B級災骸、接触を確認。全外縁要員は第二遅滞線へ後退せよ――』


 放送は最後まで聞き取れなかった。轟音がかぶさったのだ。外壁のどこかが破断した音だった。腹の底を殴るような重低音に続いて、遅れて爆風が届く。通りのあちこちでガラスが割れ、人々がしゃがみ込み、悲鳴が重なった。


「走ってください! 止まらないで!」


 イーサンは叫びながら、自分自身も走り出したくなる衝動を必死で押さえていた。怖い。とにかく怖い。今すぐこの場から遠ざかりたい。シェルターの一番奥に潜り込み、耳を塞ぎたい。そう思う自分を、彼は軽蔑していた。兵士のくせに。士官学校を出たくせに。だが恐怖は訓練では消えない。消えないからこそ、彼は歯を食いしばって前へ向くしかなかった。


 角を曲がった先で、車椅子の老人が段差に引っかかっていた。付き添いの女性がひとりで持ち上げようとして、どうにもならずにいる。背後から押し寄せる避難者の列。立ち止まれば詰まる。放っておけば転倒する。イーサンは一瞬だけ迷い、次の瞬間には駆け寄っていた。


「持ちます!」

 車椅子を抱え上げ、段差を越えさせる。肩に食い込む重み。老いた体の軽さが逆に胸に刺さる。女性が何度も礼を言う。イーサンは首を振り、「先へ」とだけ告げた。


 その直後だった。


 防壁の向こうから、何か巨大なものが跳んだ。

 壁を越えてきたのではない。壁そのものを踏み砕いて、破片をまとったまま姿を現したのだ。


 それを見た瞬間、イーサンの足が止まった。

 B級災骸。

 資料映像で見たことはある。だが実物は、映像の何倍も悪夢だった。四足に似た骨格を持ちながら、その各脚は生き物としての均衡を無視して異常に長く、節ごとに逆向きの棘が並んでいる。体表は黒鉄の甲殻と肉塊がまだらに混ざり合い、ところどころから赤く脈打つ組織が露出していた。頭部は狼にも竜にも見えたが、口の裂け方は捕食者のそれではなかった。縦に、横に、何重にも顎がずれ、奥に歯列が続いている。目に見える発光器官は三つ。左右と額。その赤い光が同時にこちらを向いた。


 見られた、と思った。


 実際に認識されたかどうかはわからない。ただ、その視線を浴びた一瞬で、体の芯が凍る。あれは生き物ではない。生き物の形を借りた災厄だ。存在しているだけで世界の法則を汚すものだ。そう直感した。


 前線の装甲車が砲撃を浴びせる。対災骸砲弾が着弾し、火球が膨らむ。災骸の肩口が抉れ、黒い肉片が飛び散る。だが、それだけだった。災骸はよろめきもしない。次の瞬間には裂けた箇所から新しい肉が泡立つように盛り上がり、あっという間に輪郭を埋め戻していく。


「うそだろ……」


 誰かが呟いた。たぶん自分だ、とイーサンは遅れて思った。


 災骸が咆哮した。


 空気が震え、人々が耳を塞いでしゃがみ込む。そのまま前脚が振るわれる。道路脇の高架支柱が一撃で折れ、崩落したコンクリートの下敷きになって兵士が三人消えた。次の瞬間には装甲車が噛み砕かれ、火を噴きながら横転する。


 戦いではなかった。

 一方的な破壊だった。


 イーサンの喉がひくつく。逃げろ、と本能が叫んでいる。だが目の前にはまだ民間人がいる。足の悪い老人、子ども、荷物を抱えた母親。ここで背を向けたら、彼らの背中にあの化け物が追いつく。そう思った瞬間、恐怖より先に体が動いた。


「伏せてください!」


 叫び、近くにいた母子を歩道のくぼみへ突き飛ばす。自分もその上へ覆いかぶさるように伏せた。次の瞬間、災骸の尾のような器官が街灯を薙ぎ払い、金属片が雨のように降る。肩に熱い痛みが走った。掠ったのだろう。だが致命傷ではない。


 顔を上げると、通りの向こうで前線指揮官が怒鳴っていた。

「撤退だ! 第二線を放棄! 市街内で足止めする!」


 その声に混じって、別の通信が割り込む。

『司令部より全隊へ。これより第零機動殲滅大隊より単独殲滅兵を投入する』


 ざわめきが走った。

 前線兵たちの顔が引きつる。希望を得たというより、別種の恐怖を思い出した顔だった。


「ゼロ大隊……?」

「あれを呼ぶのか……」

「この区画、半分は捨てる気か」


 イーサンは、その言葉にぞくりとした。

 第零機動殲滅大隊。伝聞と報道だけでしか認識できないような部隊。防衛線崩壊時の最終手段。敵を殺すためなら、周囲の街も地形も巻き込むことを前提に投入される兵器群。兵士ではなく、純然たる戦略兵器。人の形をした別種の災厄。そう教わってきた。


 けれど、いまはそれに縋るしかないのかもしれない。

 通りの向こうでB級災骸が首をもたげる。赤い眼が避難路へ向いた。その進行線上には、まだ逃げきれていない人々がいた。イーサンは立ち上がる。膝が震えていた。情けないほど震えていた。だが、それでも足を前へ出した。無駄だとわかっている。自分の持つのは誘導用の短銃と非常信号灯だけだ。C級兵装の分解整備ならともかく、B級災骸相手にできることなどない。それでも、何もしないまま見ていることだけはできなかった。


 その時、空が鳴った。


 轟音ではない。裂けるような、高高度から何かが強引に落ちてくる音だった。誰もが反射的に見上げる。灰色の雲を、一本の火線が貫いていた。真っ直ぐ、防衛線都市の中心へ落ちてくる。

 輸送機だ。

 いや、あれはただの輸送機ではない。装甲輸送艇。その単機だけが、護衛もつけず、まるで戦場そのものを侮辱するような一直線で降下してくる。腹部ハッチが開いた。


「……一機?」

 誰かが呟いた。


 次の瞬間、そこから一つの影が投下された。

 人影だった。


 常識ならあり得ない高さから、ただ落ちてくる。背部に噴射炎。黒と赤の外骨格をまとった細身のシルエット。肩部に多連装の武装ラック、背部に展開された補助ユニット、右腕に抱えられた巨大な回転砲。地獄の門をそのまま引きずってきたみたいな質量感だった。なのに、その輪郭はどこか異様にしなやかで、暴力的な兵装の塊であるはずなのに、空から降りる姿だけは奇妙に優美だった。


 地面へ着地した瞬間、衝撃波が円形に弾けた。

 瓦礫が跳ね、人々が目を覆う。舗装道路が陥没し、その中心でひとりの女がゆっくりと立ち上がる。

 イーサンは、息をするのを忘れた。


 女だった。


 黒と暗赤色を基調にした大型外骨格。全身を覆う焦げた甲冑のような装甲は、美しさよりも殺傷のための設計を露骨に示している。肩には大型ミサイルポッド、背には多連装ロケット、腰部には榴弾と焼夷弾の投射機構。腕部の補助フレームは人の骨格より一本多く、機械の都合で付け足された肢のように見える。それでも、その中心に立つ人の体躯は女であることを隠しきれなかった。長い脚、無駄のない腰の線、重武装の下にあってなお崩れない均整。ヘルメットを脱ぎ捨て、素顔が露わになる。


 金色がかった灰の空の下、その顔だけが場違いなほど鮮烈だった。

 燃えるような赤毛。戦場の煤をものともしない白い肌。氷のように鋭く、同時に炎の芯みたいな熱を宿した双眸。整いすぎていて、むしろ人間離れした美貌。だがその美しさは温かさを連想させるものではない。触れれば焼ける刃のような、近づく者を拒む美だった。


 ロクサーヌ・ヘルストーム。

 その名を、イーサンはまだ知らない。

 ただ最初に抱いたのは、恐怖だった。

 B級災骸を見た時とは別種の、もっと理性に近い恐怖。あまりにも強いものを前にした時、人は本能で理解する。自分と同じ尺度では測れない、と。彼女は人類の側に立っているはずなのに、その立ち姿はどこか災骸に似ていた。たったひとりで戦場へ降り立ち、そこにいるだけで空気の支配権を奪ってしまう、孤絶した暴力の気配。


 それなのに、同時に、美しいと思った。

 信じられないほどに。


 世界が終わりへ傾くこの場所で、焼けた道路の中心にひとり立つその姿は、あまりに凄惨で、あまりに苛烈で、だからこそ目を離せなかった。戦うためだけに磨き上げられた女の輪郭。その生き方そのものが、一本の焔のようだった。


 ロクサーヌは周囲を一瞥しただけで、状況を把握したらしい。視線がB級災骸を捉える。口元が、ほんの少しだけ笑った。


「B級一体」


 声は低く、よく通った。女らしい柔らかさはない。だが金属的というほど無機質でもない。よく研いだ刃物の腹を指で弾いた時みたいな、澄んだ響きだった。


「……なら、三分ね」

 その言葉に、イーサンの背筋が震えた。


 三分。


 あれを見て、三分と言ったのか。この街の前線を食い破り、通常部隊を紙みたいに潰し、市街へ踏み込んだB級災骸を。彼女はまるで、面倒な雑務の所要時間でも口にするような気安さで言ってのけた。


 災骸が咆哮し、跳んだ。


 ロクサーヌは動かなかった。ぎりぎりまで。災骸の巨体が影のように覆いかぶさる直前、彼女の背部ユニットが噴射し、重武装に似合わぬ鋭さで横へ滑る。着地と同時に、右腕に抱えたガトリングが唸りを上げた。


 回転音。

 次いで、爆発そのものが連射されるみたいな轟音。

 徹甲弾が災骸の前脚へ集中して叩き込まれる。外殻が砕け、黒い肉が弾け飛ぶ。間髪入れず弾種が切り替わる。焼夷弾。裂けた傷口の内側で炎が噴き、再生しようと盛り上がった組織を内側から焼き潰す。災骸が悲鳴のような咆哮を上げて体勢を崩す。


 ロクサーヌは追撃をやめない。

「――焦土作戦、開始」

 言うと同時に肩部ミサイルポッドが展開し、複数の弾頭が弧を描いて発射された。上空から災骸の背へ突き刺さり、内部で遅延爆発。装甲の隙間をこじ開けるように肉と骨格が吹き飛ぶ。さらに背部ロケットが面制圧気味に街路を洗い、災骸の退路ごと焼き払った。


 イーサンは呆然と見ていた。

 あれは戦闘ではない。

 整備兵として兵装の機構を知っている彼だからこそわかる。あの出力は異常だ。あの反応速度は常軌を逸している。反動制御、冷却、弾種切替、照準補正、その全部をあの速度で同時に人間が回せるわけがない。だが彼女はやっている。まるで、自分の神経がそのまま兵装の配線に直結しているみたいに。


 災骸が尾を薙ぐ。ロクサーヌはそれを半歩で外し、至近距離へ踏み込む。ガトリングの砲口が真上へ跳ね上がり、顎下から頭部へ弾丸の滝を注ぎ込んだ。裂ける。砕ける。燃える。それでも災骸は死なない。頭部の半分を失いながらも前脚を叩きつけ、路面を陥没させる。

 ロクサーヌはその衝撃の中を、逆に加速した。


 女の動きは激しかった。荒々しい。獣みたいに苛烈だ。だが、無様ではない。すべてが殺すために洗練されているから、激しければ激しいほど美しく見えた。爆炎の中を赤い髪がひるがえり、砲火の閃きが横顔を照らすたび、イーサンは理解できない感情に胸を掴まれた。怖い。あんなもの、怖いに決まっている。あの女は、守る側の人間の顔をしていながら、ひとつ間違えば街ごと焼き尽くしかねない。現に、彼女の砲火が掠めたビル壁面はみるみる炭化し、路上の車両は原型を失っていく。


 それでも、目が離せない。

 彼女はひとりで立っていた。誰にも守られず、誰の援護も受けず、ただ一人でB級災骸の正面に立ち、その全存在で「ここから先には行かせない」と言っていた。恐怖を知らないのか、あるいは知った上で踏み潰しているのか。どちらにしても、イーサンには到底真似のできない強さだった。


 自分はどうだ。

 怖くて仕方がない。膝はまだ震えている。耳は銃声で痺れ、肩の傷は熱を持ち、逃げたい気持ちは少しも消えていない。それでも避難民を庇って飛び出したのは、立派だからじゃない。ただ、見捨てる方がもっと嫌だったからだ。彼の正義感は勇敢さの形をしていない。むしろ臆病だからこそ、誰かが傷つく光景を直視できない優しさから来ていた。


 その自分が、あの女を見ている。

 世界のどこかに、こんなふうに一人で地獄へ踏み込める人間がいるのか、と。


「コア、出なさいよ……!」

 ロクサーヌが低く吐き捨てる。次の瞬間、彼女はガトリングを災骸の胸部へねじ込むように撃ち込んだ。徹甲弾、電磁破砕弾、焼夷弾が流れるように切り替わり、装甲が剥がれ、筋組織が千切れ、内側の深部に赤黒く脈打つ核様器官が覗く。


 コアだ。

 イーサンは思わず叫んだ。

「そこだ!」


 聞こえるはずもない。だがロクサーヌは最初から見えていたように、口角を吊り上げた。

「見えてる」

 その返答が、自分に向けられたものなのか、独り言なのか、イーサンにはわからなかった。


 彼女は両脚を踏み込み、外骨格の各部ロックを解除する。背部ユニットが開き、冷却蒸気が白く噴き上がる。ガトリングの砲身が赤熱する。危険域だ。整備兵の勘がそう告げる。あれ以上は機体が持たない。にもかかわらず、ロクサーヌはためらいなく引き金を絞った。


「ヘルゲート・オーバーラン」


 世界が一瞬、白くなった。

 限界連射。

 砲身そのものが悲鳴を上げるような高音を混ぜながら、膨大な弾丸が一本の火線になってコアへ突き刺さる。災骸の巨体がのけぞり、内側から膨れ、次の瞬間に爆散した。肉片と黒い液体が噴き上がり、周囲のビル壁へ叩きつけられる。爆風が街路を駆け抜け、イーサンは腕で顔を庇った。


 静寂が訪れるまで、数秒かかった。

 耳鳴りの向こうで、何かがぱちぱちと燃えている。視界の先には、半壊した通りと、崩れた外壁と、無数の黒煙。そして、その中心に立つひとりの女。


 本当に、三分もかかっていなかった。

 ロクサーヌはゆっくりとガトリングを肩へ担いだ。砲身の先端は溶けかけ、赤黒く変色している。常人ならその熱で近づくことすらできないはずなのに、彼女はまるで気にしない。痛覚が鈍っているのか、それともそれすら意志で捻じ伏せているのか。

 彼女は周囲の被害を一瞥した。壊れた建物。焼けた路面。生き残った兵士たち。避難していく住民。そこに感傷の影はなかった。必要な損害と、不要な損害。その線引きだけをしているような冷たさがあった。


 けれど、イーサンは見た。

 彼女の視線が、一瞬だけ避難していく子どもたちへ向いたことを。

 ほんの一瞬。気のせいかもしれないほど短く。それでも、その瞳の奥に、微かに人間らしい陰りが差したのを、彼は見逃さなかった。


 気づけば、イーサンは彼女に向かって歩き出していた。

 自分でもなぜかわからない。怖いのに。近づきたくないのに。だが、行かなければいけない気がした。ここで声をかけなければ、この出会いは永遠に爆炎の向こうへ消えてしまう気がしたのだ。


「待ってください!」


 声をかけた瞬間、しまった、と思った。相手はゼロ大隊だ。下級整備兵が気軽に呼び止めていい相手ではない。しかもその女は、ついさっきB級災骸を単騎で殺したばかりだ。


 ロクサーヌが振り向く。

 その視線だけで、イーサンの背筋が凍る。


「何」


 短い一言。温度はない。だが威圧だけなら、さっきの災骸にも劣らなかった。

 イーサンは喉を鳴らした。それでも逃げなかった。逃げたら、自分が自分を嫌いになるとわかったからだ。


「あ、あなたは……」


「見ればわかるでしょ」


「いえ、その……所属と、名前を」


 情けないほど不器用な聞き方だった。ロクサーヌの眉が、ほんの僅かに動く。呆れたのか、あるいは面白がったのか、判別できない。


「GDF第零機動殲滅大隊」

 彼女は淡々と言った。


「ロクサーヌ・ヘルストーム少佐」


 一拍置いて、わずかに口元を歪める。


「――“戦域殲滅兵”よ」


 その名が、イーサンの胸に重く落ちた。

 ロクサーヌ・ヘルストーム。

 戦域殲滅兵。


 肩書きの意味は理解している。だが、実物を見た今、その語は書類の文字とは全く違う重みを持っていた。彼女は人ではなく兵器だ、と周囲が囁く理由がわかる。強すぎるから。激しすぎるから。その全部が人間の枠を少しだけ越えているから。何より、美しすぎるから。


 ロクサーヌはそれ以上話す気はないらしく、踵を返した。輸送艇が再接近し、収容のために高度を落とし始めている。その背中を見て、イーサンは思わず口を開いていた。


「街を……守ってくれて、ありがとうございました」


 言ってから、子どもみたいだと思った。もっとましな言い方があったはずだ。整備兵らしく、機体の状態を気遣うとか、命令系統に沿った敬礼をするとか。なのに出てきたのは、そんな素朴な礼だけだった。


 ロクサーヌは歩みを止めた。

 振り向きはしない。背中だけがそこにある。赤い髪の先が、焦げた風に揺れる。


「勘違いしないで」

 低い声が返ってきた。


「私は災骸を殺しに来ただけ。守るとか、救うとか、そういう綺麗事のために撃ってるんじゃない」

 冷たい言葉だった。


 けれどイーサンは、なぜかそれを本心のすべてだとは思えなかった。人を救いたいから戦う人間は、きっともっと優しい顔をするだろう。だが、誰かを守りたいという感情をあまりに強く抱えすぎた人間は、逆にこういう顔になることがある。そういう直感があった。


「それでも」

 イーサンは小さく言った。


「助かりました。……俺も」


ロクサーヌはようやく半身だけ振り返った。

 視線が合う。

 凍りつくほど鋭い目だった。けれどその奥に、ほんの微かに疲労が見えた。痛覚も恐怖も疲労も遮断するような兵装を纏っていても、魂の摩耗までは隠せないのかもしれない。


「死にたくないなら、次は前に出ないことね。下級整備兵」

 胸の認証タグを一瞥して、彼女は言った。


「あなた、戦う顔じゃない」


 その言葉は刃みたいに鋭かった。

 だが、不思議と侮辱には聞こえなかった。事実を言われただけだ。彼は臆病だ。人を殺すための顔ではない。壊れた部品を直し、誰かの背中を押し、泣いている子どもにしゃがんで目線を合わせる方が似合っている。自分でもそう思う。

 それでもイーサンは、胸の奥で小さく反発した。


「でも、人を見捨てる顔でもありません」


 言ってから再び、しまった、と思った。相手は少佐だ。しかもあのゼロ大隊。口答えしていい相手ではない。

 ロクサーヌの目が、ほんの少しだけ細くなった。

 怒るかと思った。

 だが、彼女は怒らなかった。むしろ、ほんのわずかに、笑ったように見えた。笑った、というにはあまりにも微細な変化だったが。


「……そう」


 それだけ言って、彼女は今度こそ背を向けた。

 輸送艇のハッチが開く。彼女は迷いなく乗り込む。兵器が格納庫へ戻るみたいな無駄のない動きだった。だがハッチが閉まる直前、一度だけ、彼女は外を見た。焼けた街、黒煙、避難民、崩れた防壁。そして、その中に立つひとりの下級整備兵。


 何を思ったのかはわからない。

 次の瞬間にはハッチが閉じ、輸送艇は再上昇していた。

 轟音が遠ざかる。


 あとに残ったのは、焦土の匂いと、助かったという実感の薄い静けさだけだった。

 ハロルドが遅れて駆け寄ってくる。


「おい、無事か!? 今の爆発、見たか……?」

「見た」

 イーサンは空を見上げたまま答えた。


「見たよ」

 声が、自分でも驚くほど静かだった。


 恐ろしいと思った。あんな存在が人間であっていいのかとすら思った。戦場に一人で立ち、たった三分でB級災骸を屠る女。その苛烈さ、その激しさ、その強さ。あれは人類の希望というより、人類がようやく手にした別種の災厄だ。


 それでも、彼の胸には奇妙な熱が残っていた。

 あんなふうにはなれない。自分は臆病で、強くなくて、戦場の真ん中に立つには向いていない。だが、彼女の兵装を支えることならできるかもしれない。彼女が次の地獄へ向かう時、その機体を万全で送り出すことなら。そんな考えが、傷口に沁みる熱みたいに胸の奥へ広がっていく。


 理由はわからなかった。

 ただ、彼は知ってしまったのだ。

 この灰色の世界で、ひとり燃えながら戦う女の姿を。


 ロクサーヌ・ヘルストーム。


 その名は、イーサン・クロークの人生にとって、ここから先ずっと消えない跡になるだろうと、なぜかその時すでにわかっていた。


 防衛線都市の上空では、再び灰色の雲が閉じていく。


 だがイーサンの目には、さっきまでそこを貫いていた火線が、まだ焼きついて離れなかった。


 あれは救いではない。

 祈りでもない。


 この滅びかけた世界が生み出した、最も美しく、最も苛烈な反撃のかたちだった。


 そして、彼はその日初めて知ったのだ。

 人は恐怖したものにこそ、心を奪われることがあるのだと。


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