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EVE〜終末世界の整備兵〜  作者: 灰猫J
第一章 焦土と共に
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第0話 絶望の地

 空が、あまりにも低かった。

 

 西暦2148年。かつて青く、どこまでも遠く広がっていたはずの天蓋は、いまや鉛を溶かして塗りつけたような色をしていた。雲は厚く垂れこめ、昼であるにもかかわらず街には夕暮れよりも沈んだ光しか落ちてこない。太陽はまだこの世界のどこかにあるのだろうが、それを見た者はもうほとんどいない。少なくとも、この都市では。


 風が吹くたび、灰が舞った。

 焼け焦げたコンクリートの粉末なのか、崩れた外壁の断片なのか、あるいは、もっと別のものなのか。いまでは誰も気にしない。気にしたところで意味がないからだ。何の成分でできていようと、それは肺を汚し、視界を曇らせ、死にかけた街の匂いにさらに古い墓所のような湿り気を与えるだけだった。


 都市防壁第七区画。かつて国際物流の要衝だった場所は、いまや生き残った人間たちの退避線の外縁に変わっていた。巨大なコンテナ群はすべて即席の遮蔽物として積み上げられ、その上には機関砲座と迎撃用のミサイルランチャーが据えつけられている。だが、それらは防衛設備というより、絶望を少しでも遅らせるための慰めに近かった。


 兵士たちは知っている。

 あれでは足りないと。


 いや、足りないなどという言い方は正確ではない。効かないのだ。何度撃とうと、どれほど高価な弾頭を用意しようと、災骸(さいがい)は止まらない。金属を裂き、炎を浴び、肉を吹き飛ばされてもなお、異様な再生で形を取り戻しながら前進してくる。砲弾の雨はせいぜい、その歩みを一瞬だけ鈍らせるにすぎない。人類が有史以来磨き上げた兵器体系は、約30年前の地獄の出現を境に、あまりにもあっけなく過去の遺物になった。


 見張り台の上で、若い兵が双眼鏡を握る手を震わせていた。

「……まだ、ですか」

 独り言のつもりだったのだろう。しかし隣に立つ老兵は答えた。

「まだ来ない方が珍しい」

 声は疲れ切っていた。諦めを通り越し、感情そのものが摩耗しつつある人間の声だった。


 遠方の地平線に、靄のようなものが揺れていた。灰色の大気が乱れているだけにも見える。だが兵士たちは、それがただの蜃気楼ではないことを知っている。双眼鏡を覗き続けた若い兵の喉が、ごくりと鳴った。

 見えたのだ。


 最初に現れたのは、脚だった。

 節くれだった巨大な肢。獣のそれにも、昆虫のそれにも見えた。関節は異常な方向に折れ曲がり、表面はぬめる甲殻と焼けた岩肌を無理やり縫い合わせたような質感をしている。その一本だけで高架道路を踏み砕けるほどの太さがあり、足先が沈み込むたび、遠く離れた防壁にまで微かな振動が伝わってくる。


 続いて、二本、三本、四本と、異形の影が霞の中から現れた。

 いや、脚だけではない。あるものは蛇のように地を這い、あるものは羽ばたきの残滓だけを持った半端な翼を背に引きずり、あるものは人類の古い神話に描かれた龍を連想させながら、しかしその輪郭のどこかが決定的に狂っていた。眼球の位置、口の開き方、骨格の収まり方、生き物として守るべき法則のすべてを捨て去った姿。それでもなお、見る者に「何かに似ている」と錯覚させるのが、災骸という存在のもっとも不気味なところだった。


 自然界の模倣。

 悪意ある写し絵。

 神が酔って描いた生物の失敗作。


 いつしか人々はそう呼び合うようになったが、正体は誰にもわからない。ただひとつ確かなのは、あれらがこの星の生命史の外から来た異物でありながら、あまりにもこの世界の生き物を理解しすぎているということだった。魚のような尾を持つ災骸は海中戦に適応し、鳥を模したような災骸は上空から都市を裂いた。狼や熊や蟲に似たものもいた。だが、似ているのは輪郭だけだ。その内実は、地球の進化が決して生み出さなかったはずの、死と破壊のためだけに組み上げられた構造だった。


 警報が鳴った。

 低く、重く、耳障りな連続音。もう何年も聞き続けているはずなのに、そのたび心臓の奥に冷たい針を刺し込まれる音だった。


『前線観測班より入電。接近群を災骸反応と確認。個体数三十以上。先頭個体、推定D級複数。後続にC級反応あり。繰り返す――』


 通信は一瞬途切れ、激しいノイズを噴いた。向こうで何かが断裂する金属音と、人間の絶叫が聞こえた気がしたが、誰もそれを口にしなかった。


 若い兵が唇を噛む。

「前線が、潰れた……」

「静かにしろ」

 老兵は短く言ったが、その目にも敗北の色が濃い。D級、C級。その言葉だけで充分だった。小型群体で済むならまだいい。戦車の戦闘力に等しいD級、ビルと同程度の巨躯を誇るC級が混ざった時点で、通常部隊の損耗率は跳ね上がる。都市防壁そのものが一戦ごとに削れていく。そしてその後ろには、もっと上がいるのだ。都市を壊滅させるもの。国家を潰すもの。人類そのものの終わりを形にしたようなものが。


 サーチライトが起動し、鈍い白光が灰の空を薙いだ。砲台群が旋回を始める。誘導レールに電流が走り、地鳴りのような駆動音が防壁全体を震わせた。


 それでも、誰一人として希望を口にしなかった。

 勝てる、ではなく、何分持つか。

 何人逃がせるか。

 ここで何人死ぬか。

 いまの戦場にあるのは、その程度の計算だけだった。


 かつて人類は世界中に都市を築き、空を越え、海溝を覗き、月と火星にさえ手を伸ばしかけた。だが災骸の出現以降、その文明は坂道を転げ落ちるように後退した。外縁の都市は次々に喰われ、国家という枠組みは次々に消滅し、生き残った人々は防壁の内側へ、地下へ、海上要塞へと押し込められた。地図の色は年々暗く塗りつぶされ、居住可能圏はついに全盛期の三割にまで縮小した。学校では世界史より避難経路を教え、子どもたちは花の名前より警報の種類を先に覚えた。墓地を増設する土地すら足りず、遺体の多くは番号だけを与えられて処理された。人間の社会はまだ息をしている。だがそれは生きているというより、長く苦しい窒息の途中にあるように見えた。


 防壁の内側、退避シェルターへ向かう通路では、人々が無言で列を作っていた。

 泣き叫ぶ者は少ない。とっくに限界を越えた時代では、恐怖はしばしば沈黙に変わる。母親のコートを握る幼い手。荷物を持つ気力もなく、毛布一枚を肩にかけただけの老人。車椅子を押す少女のこわばった横顔。群衆の視線には共通する色があった。期待しないことに慣れた者の目だ。


 誰もが知っている。

 防壁は破られるかもしれない。

 シェルターも絶対ではない。

 明日、自分が生きている保証はない。


 それでも列に並ぶのは、本能がまだ死にきっていないからだろう。あるいは、人間という種があまりにも長く「次の日が来る」ことを前提に生きてきたせいで、たとえ終わりが目前にあってもその習性だけは捨てられないのかもしれない。


 ひとりの少年が、避難通路の途中で立ち止まった。

 十二、三歳ほどだろうか。痩せた肩を震わせながら、彼は防壁の上を見上げていた。係員が急かす声を飛ばす。

「止まるな、進め!」

 だが少年は目を逸らせなかった。

「お父さん、まだ上に……」

 係員は一瞬だけ言葉に詰まり、それから目を伏せた。

「進め」

 それしか言えなかった。

 少年は理解したのだろう。泣きもせず、唇を引き結んだまま列に戻った。その背中は、子どもであるにはあまりにも小さく、世界の重さに潰されかけていた。


 防壁上では、第一射が放たれた。


 轟音。


 超電磁加速砲が火花を散らし、空気が瞬間的に裂けた。数秒後、遠方の霞の中で閃光が咲く。災骸の一体が上半身を吹き飛ばされ、黒い体液と肉片を雨のように撒き散らした。若い兵が思わず息を呑む。だが次の瞬間、半壊した個体はその場で蠢き、裂けた断面の奥から脈動する肉を押し出しながら輪郭を再構成し始めた。


 誰かが呟いた。

「……やっぱりだ」

 その声には怒りも驚きもない。ただ、確認だけがあった。世界はやはり間違っていて、自分たちはその間違いの中で死ぬのだという確認が。


『コア確認できず! 表層損傷のみ、再生継続!』

 オペレーターの報告が響く。


 災骸の体内には核となる部位がある。そこを破壊しない限り、あれらは何度でも肉体を取り戻す。砲撃が無意味ではない。だが致命打にはならない。戦場で「致命打にならない」という事実は、しばしば「無意味」と同義だった。

 第二射、第三射。ミサイルの飽和攻撃。榴弾の一斉掃射。防壁全体が火を噴き、夜のように暗い昼をさらに赤く染め上げる。煙が膨れ、閃光が連なり、雷鳴のような爆発音が幾重にも重なった。普通の戦争であれば、それだけで戦場は更地になっていたはずだ。


 だが煙の向こうから現れる影は、減るどころか増えているように見えた。

 焼け爛れた表皮を引きずるもの。

 片翼だけで跳躍してくるもの。

 四足獣に似た下半身と人型めいた上体を継ぎ合わせたもの。

 巨大な角を戴き、神話の獣王を思わせながら、口腔の奥に無数の歯列を螺旋状に備えたもの。


 それらはすべて、世界に対する冒涜だった。存在そのものが「こんなものがいていいはずがない」という叫びを引き起こすのに、それでも現実にそこにいて、地面を踏みしめ、都市へ近づいてくる。


 若い兵の頬を汗が流れた。

「どうして、こんなのが……」

 その問いに答えられる者はいない。


 災骸が初めて現れた日から、人類は約30年に渡り原因を追い続けてきた。宇宙由来説、次元干渉説、生体兵器説、神罰説。どれも決定打を欠き、やがて大半の人間は起源を知ることに興味を失った。理由を知ったところで明日生きられるわけではないからだ。問いは学者のものになり、生存は兵士のものになった。


 その兵士たちすら、もう足りない。

 足りないどころか、普通の兵ではどうにもならない段階に、戦争そのものが移ってしまった。


 だから人類は、新しい兵器を作った。

人間が扱うにはあまりにも歪で、あまりにも選別的な兵器を。


 殲滅兵装。


 その名が公にされた日の映像を、老兵はまだ覚えていた。最後の切り札のように喧伝された、対災骸用の新装備群。人間の身体能力と神経伝達を極限まで拡張し、災骸の核を直接破壊するための、戦場の理を変える装備。だがそれを扱える者は、ごくわずかしかいなかった。千人に一人。あるいは、それ以下。適合しなければ装着者の肉体も精神も壊れる。適合した者でさえ、兵士というより兵器として扱われる。人間の形をした、消耗前提の戦略資産として。


 若い兵が通信兵へ怒鳴った。

「殲滅兵は!? まだ来ないのか!」

 返ってきたのは、無機質なノイズ混じりの声だった。

『現在移送中。到着予定、二分二十秒後』

「二分……!」


 その二分が、永遠より遠く感じられた。


 防壁の一角が崩れた。

 C級個体の突進だった。鋼鉄の障壁が紙細工のようにめくれ上がり、衝撃波で兵士数名が宙へ舞う。悲鳴すら爆音に呑まれて聞こえない。黒煙の中から現れたその災骸は、犀と古代竜を混ぜ合わせたような巨大な頭骨を持ち、眼窩の奥に不気味な赤光を宿していた。額から伸びる角はビルの柱ほどもあり、その表面には脈打つ血管のような発光線が走っている。


 老兵はとっさに若い兵を突き飛ばした。

 次の瞬間、角が砲座ごと鉄板を貫いた。さっきまで若い兵のいた場所が抉り飛び、金属片と血が混ざって宙を散った。


 若い兵は床に転がり、数秒、自分が生きている意味を理解できなかった。鼓膜は痺れ、視界は白く明滅し、喉の奥に鉄の味が広がる。視線の先で、老兵が片膝をついていた。腹部から右下半身の肉体がほとんど消えている。それでも老兵は倒れず、震える手で起爆装置を握った。


「下がれ……!」


 怒鳴ると同時に、老兵は砲座下の弾薬庫を自爆させた。

 閃光が視界を呑み込み、災骸の頭部が爆炎に包まれた。


 しかし、それでも足りない。

 黒煙が割れ、半ば焼失した頭骨の奥から、新しい肉が盛り上がるのが見えた。世界の理不尽が、そのまま形になっていた。


 若い兵は絶叫した。

 それは恐怖の声だったのか、怒りの声だったのか、自分でもわからなかった。ただ、このままでは全員死ぬという確信だけがあった。

その時だった。


 空の色が変わった。


 鉛色に沈んでいた雲の一部が、上から真っ直ぐ切り裂かれるように裂開した。雷ではない。落下だ。何かが極超音速で大気を貫き、雲を層ごと押し分けながら降下してくる。遅れて衝撃波が到達し、灰と瓦礫が一斉に巻き上がった。


 兵士たちが顔を上げる。

 避難列にいた人々まで、思わず足を止めて空を見た。


 暗い世界に、ただ一点だけ、白銀の光があった。


 それは星ではない。救いでもない。人類があまりにも追い詰められた果てに、ようやく捻り出した反撃の形だった。


 巨大輸送機から切り離された投下用フレームが、防壁の内側へ向けて降下してくる。装甲殻を焼きながら落ちるその軌道は流星のようでありながら、願いを託すにはあまりにも暴力的だった。外殻が空中で爆ぜ、内部のシルエットが露わになる。


 人型。


 だが、ただの人間ではない。


 漆黒の黒と灼熱の赤が混ざり合う装甲に包まれた細身の機影。背部ユニットから展開した拘束フレームが尾のように揺れ、四肢には過剰なまでの駆動肢が接続されている。胸部中央には、生き物の心臓を思わせる深紅の発光体。無骨であるはずの兵装は、なぜかどこか生物めいた気配を帯びていた。まるで金属と骨格の境界が曖昧になった、新しい種の骨子だけが空から降ってくるようだった。

 誰かが震える声で言った。


「殲滅兵装……」


 その名は祈りではなく、もはや信仰に近かった。


 防壁の上に着地した瞬間、衝撃で周囲の瓦礫が円状に吹き飛ぶ。膝を折って衝撃を受け流したその人影は、ゆっくりと立ち上がった。装甲の隙間から蒸気が噴き、駆動音が低く唸る。


 ヘルメットのバイザー越しに表情は見えない。

 男か女かも、この距離ではわからない。

 だが、そこに立つものが普通の兵士ではないことだけは、誰の目にも明らかだった。

 人の形をした最後通牒。

 災骸に抗うためだけに、選ばれ、削られ、武器へ変えられた存在。


 その姿を見た瞬間、避難民たちの目に、ほんの微かな光が戻った。明日を信じる光ではない。せめて今日、いま、この瞬間だけは終わりを先延ばしにしてくれるかもしれないという、虫の息の希望。それでも、完全な闇の中では、そのかすかな灯だけでも奇跡に見えた。


 一方で、若い兵は本能的に理解していた。

 あれは救世主ではない。

 人類が壊れながら作り上げた、さらに大きな破壊の器にすぎない。


 だが、この世界では、それで充分だった。


 バイザーの奥で、起動光が赤く灯る。

 通信回線が全周波数を強制的に上書きし、ひどく静かな、しかし異様なほど澄んだ声が防壁全域に流れた。


『対災骸殲滅兵装、起動完了』


 それは低く、しかし同時にこれからの殺戮を予感させるような、澄んだ女の声だった。


 一拍の沈黙。

 眼前では、頭部を再生したC級災骸が咆哮し、防壁へ突進しようとしていた。瓦礫の向こうでは、さらに多くの異形たちが列をなし、この都市の息の根を止めに来ている。空は低く、世界は暗く、人類はすでに崖の縁に立たされていた。


 それでも、その声は続いた。


『これより、掃討を開始する』


その瞬間、世界の終わりに最も近い場所で、物語が始まった。


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