第九十話
《1993年12月18日土曜日 午後14:30 冬》
「…手首切ったくらいで…死ぬ訳ないじゃん!」
ついに、K美はぶちまけやがったな…。あの一言が過去の俺を怒らせた。
「大体あんたは何様のつもりなの?まるで全部を達観した気でいるけど、結局、人の気持ちなんて何もわかってないじゃない。私は貴方から誘われたからそれに応えただけ。そんな社交辞令もわからない訳?」
あきらかに過去の俺は目付きが変わった。
「社交辞令…だと?」
「そう、社交辞令。一度寝たからって、恋人同士だなんて勘違いする方がおかしいの。正式に恋人同士としてお互いに何か約束でもした?結婚だってYが勝手に盛り上がった事でしょ?私はいいよとも悪いよと言ってない。」
「…。」
「結局さぁ、Yはそうやって人のせいばっかりしているけど、自分ではまるっきり責任がないじゃない。勝手に舞い上がって、勝手に落ち込んで、勝手に憎んでいるだけ。こっちとしてはいい迷惑!」
「…。」
「少し下手に出ればホイホイ調子に乗ってつけあがって、まるで世界の不幸は全部自分が抱えていますみたいな表情して。あんたなんかよりももっと不幸な人はいるし、生きて行く事が大変な人はもっといっぱいいるの!」
「そのくらいお前に言われなくたって分かってるさ!それでも…あんたが、手首を切った人の気持ちなんかわからないだろって言うから、俺は死ぬ気で…。」
「じゃあ逆に聞くけど、手首切って本当に死ねるとでも思った!?」
K美は左腕を捲り上げ、右手の人差し指と中指だけを包丁のように見立てた。
「死にたかったら、縦に、こうやって…ざっくり切り込まなければ無理なの。そんな事も知らないで、一回だけ切ったくらいで、死ぬ気だなんて偉そうにしないでよ!」
一回だけじゃ…駄目なのかよ?そんな風に過去の俺は刻み込まれた。相手の一言は、過去の俺という怒りの炎に蒔きを入れるようなものだった。
「大体さぁ、私はこんな事を言われる為に今日は来たんじゃないんだから。もう帰るね!」
Y美がコーヒーも飲まずに、自分だけ帰って、公衆の面前でまた過去の俺に恥をかかせるのは見え見えだった。過去の俺はすかさず、右手に持っていたペプシをぶちまけた。
「きゃぁ!」
そう…。あのペプシの液体がコップからすり抜ける時の感触を、今でも覚えている。本当に気持ちが良かったし、残念なのは相手の顔にヒット出来ず、胸あたりにかかった事だった。周りの人は、過去の俺がぶちまけた時に、みんな注目していた。しかし、過去の俺はK美よりもすかさず、その場から立ち去ったいった。その後に何が起きていたのかも、気にせずに。いや、本当は気になっていた。だから店を出て、橋あたりで一度だけ振り向いたんだ。けれど、K美は追いかけて来るどころか、姿さえ無かった…。だから、こうやって過去の俺はK美を自分の記憶から殺した。復讐は完了した。
この後は、現代の俺が見たかった記憶だ。ぶちまけられた後、店内にいた客は、その様子に注目したままだった。誰一人、K美に声を掛ける者もいない。K美はしばらく一人で必死に掛かったペプシを拭き取っていた。アルミケースも調べているが、特に濡れている様子は無い。その後、彼女は恥ずかしさの余りその場から立ち去ろうと焦っていた。しかし、まだ飲みかけだったホットコーヒーを、今度は自分でこぼしてしまう。自分の情けなさに嫌気が差して、椅子にしゃがむように座る。アルミケースを眺めながら、なんの為にこんな重たい物を持ってきたのか?彼女は馬鹿らしくなってきたようだ。
俺は…僕は…私は…自分は、どうしても耐えきれず、K美に声をかけてしまった…。
「大丈夫?」
「あ、はい…。ありがとうございます。」
この記憶は、今、俺が作り出しているもの。そんな事は分かっているけど、やけにリアリティがある。
「なんか…大変だったね?」
「はい…。なんか、勝手に怒り出しちゃって。」
「これから…どうするんですか?」
いいかい?これは自分が今作り出している記憶なんだ。これからが俺の本当に望むK美の姿。
「私…。ここから出られないんです。」
「え…?」
「いつも、何度もあの人がこの記憶を思い出す度に、私はずっとこうやって罰せられて、ここの場所で毎回閉じ込められるんです。」
そんな…。
「人に心底愛されたいと思ってる人間が、本心から人を傷付けたいと思えますか?同時に、人から愛されたい人間は、愛された時にその愛情が嘘でもいいから向いていて欲しいと願っているんです。」
これが、俺が残していた自責の念…。
「私は、あの人が自分を罰する為に、ここに留まっていなければいけないんです。」
いや、もうこんな事は終わりだ。罪悪感なんて無くそう。この記憶は、K美の死と共に、葬り去らなければならない。
続く




