第九十一話
《1993年12月18日土曜日 自責の間》
「未練?」
「あの人はそんなロマンティストではないでしょ?もっとセンチメンタルだから…。」
センチメンタル?果たしてそうなのか?過去を振り返って、感傷に浸る事など今の俺にできるのか?
「ここから出たいとは思った事は無いのかい?」
「何度もあるって!でも、みんなが全然許してくれない。ここにいる周りの人は全て私を見張っている!全て彼が何度も私にあの砂糖水をかける為!私が逃げ出そうものなら、砂糖の柱に変えてしまうの!」
何か怪しい。俺がどうして毎回ここで彼女を苦しめる姿を見なければいけないんだ?人を傷付けた記憶が、自分自身を苦しめていると?それだけじゃ無いはずだ。だから彼女はここから出たがっているんじゃない、出られない振りをしているんだ。それを感じたのはいつだ?あのアルミケースを持ち上げようとした時だ。あのアルミケースの中に何かがあるはずだ。
「私は何度もここに連れられて、何度も君に辱めに合うの…。」
うん?君?何故俺の正体が分かるんだ?
「もう君に苦しめられる想いはしたくないの!争いは本当に嫌なの。だから私を自由にして!」
「どうやって?」
「謝ればいいの…。私に、そうしてゆっくり君が悪かった事に傷ついていけばいいの…。そうでなければ、私はずっとこうやって君に罰せられて生き続けるしかない。」
「いや、それも今夜迄だ。もうこれ以上、苦しめる必要が無い…。」
「それじゃ、私を、外に出してくれるの?」
「いや、俺をだ…。」
俺は彼女のアルミケースをすかさず肩にかけて、その場から立ち去る。そうだ。彼女は嘘をついていた。俺はセンチメンタルではない。ナルシストのロマンティストだ。この記憶へいつも誘ってくるのは、過去の俺じゃない。俺の中に病原菌として未だに居座っているK美の病なんだ。これは俺の中にある、他者への求愛という感情を餌に今でも肥大化している病魔なんだ。
そう、全て自分だけで自分が作り出される訳じゃない。良い影響も悪い影響もあるように。
「何を言っているの?!影響を受けたって事は、君がそれを心の何処かで望んでいるからでしょ?!そう思うからでしょ?!」
K美の足元は、樹木のつるのように周りの人全員とつながって、突然襲いかかってきた。
「ふざけるな!何でもかんでも、自分の責任にして、こんな自責の間に俺を押し込めるな!不意に事故に合った人も、自分から望んでいるから事故に合ったのか?!突然無差別殺人の犠牲者になったのは、犠牲者が望んだからなのか?!それは絶対に違う!」
「君の語る正義はいつも陳腐な言葉なの!この世に絶対など無い!!運が悪い人間と、単に影響を受けた人間を一括りにして言い訳しているだけでしょ?!君は私がどうであれ、それを望んで受け入れた!それは事実なんだから!」
「それでも!お前は俺が望んだK美じゃない!」
「無駄なの!君は私を受け入れた!そして過去を振り返る度にここへやってきて、何度も何度も君は自責の念に苦しめばいいの!」
「俺の事を…『君』って…呼び捨てするんじゃねぇ!!!」
俺は持っていたアルミケースを必死に抱きかかえながら走り抜けた。振り向かず、そのまま走り抜けた。途中、再び過去の俺を引き連れたK美がやってきた。俺はそいつの腕を掴んで外に逃げ出した。
「何をするんだ?!」
「もう行くな!」
「はぁ?お前は誰なんだよ?」
「お前は俺だよ。もう、お前はあそこへ行く必要がないんだ!過去に留まる必要はないんだ!」
「何を言ってるんだ?!」
「あの女はお前にペプシを掛けられる事を待っている。それがあいつの罠なんだ。そうやって引き留めようとしている。最後の幻影が憎しみと哀しみを増やし、お前自身の心に穴を作って、いつでも死んでしまいたいと、楽をしたくなるんだ。」
だが、過去の俺は一筋の涙を頬に伝えながら、か弱く呟いた。
「楽をしたくなるのが…なんで駄目なんだ?」
「…。」
「傷つく事から逃げるのが、なんで駄目なんだ?」
「…。」
「嘘でもいいから、誰かから愛されていると、なんで実感しちゃいけないんだ?」
「…。」
「僕は怖いんだ。僕は怖いんだ。僕は怖いんだ!」
その怯えた姿は、まるで夜泣きをしている赤ん坊のようだった。自責の間には、幾多のつるを伸ばしながら、病魔のK美が憎しみと微笑みを携えて、過去の俺を待っている。
「それ、K美さんのアルミケース…。」
「あ?!」
一瞬の隙を突かれ、俺はアルミケースを奪われてしまいそうになった。だが、俺にはこれを手放す訳にはいかない。
「返せ!K美さんに渡すんだ!」
手放す訳にはいかない…。あの時の俺は、本当は写真を撮ってもらって仲良くなりたかった…。
「何てうざい奴なんだ!過去の俺が、何を思うと自由だろ?!」
よりを戻したかったんだ!でも、自分の憎しみを優先した。それがとっても後悔になっていた。
「離せ!今のお前がどんだけ強くなろうとも、ここにいる俺はここにいたいんだ!」
けれど、俺は…。
「いい加減にしろよ!」
知っていたんだ!
「離せ!」
俺はわざと手を離した。地面に落ちた拍子で、アルミケースは開いた。
中には、カメラどころか何も入っていなかった。
続く




