第八十一話
「今更…。なんのようだ?」
「『俺様』の相談に乗ってもらいたくてさ…。」
「ほざいてろ…。」
俺はゆっくり改悛の玉座室を眺めた。絨毯には多くの眼球達がこちらを見ている。世間を知り得る窓全ては、全てカーテンで閉ざされたままだった。天井には、自分が全裸でK美の姿をした私に抱かれている姿が映し出されている。恍惚とした自分の顔には、現実へ戻る意思など全く存在していなかった。
「これが、お前の望んだ事か?」
「違う…。自神が望まれた事だ。」
何たるナルシシズムだ。膨大で常に増殖を繰り返して私は自分に吸い付いている。自分は記憶の中にいる本当のK美を『薔薇の女王』と呼んだ。だが彼女は『荊の女王』だ。本当のK美ではない。居心地の良い偽者だ。何故自分は気が付かないんだ?
「無理だ…。幼い頃の記憶には、誰しも抵抗する事は出来ない。トラウマもしかり、幸福だった時間もしかりだ。奴らは不完全に成長した人間の感情へ、いとも簡単に入り込んで直結し、心を閉ざしたり開いたりする。」
究極のナルシシズムか…。いわゆる傷の舐め合いってやつを自意識と過去の記憶でやりやがった。となると、究極のナルシシズムを破るにはビルドゥングスロマン(成長物語)しかない。
「だが、お前に物語を終わらす権利など無い!」
「陳腐な台詞だ。ほざいてろ…。」
さて、どうする?『吾』は玉座の近くに置いてある、ワイングラスへ左手首を差し出して、その傷口から漏られる血液を注ぎ込んだ。
「どんなに肉体で手術を施し、13針で縫ったとしても、俺達自意識にはいつも!この引き裂かれた傷口が、アホヅラ下げてぱっくり口を開けてやがったんだ。永遠に苦しむこの傷に苛まれ、俺の傷口からはいつだってこうやって血が流れる。」
勢い良くトボトボと注ぎこまれた血液は、徐々にその勢いを弱めて、ついには絞り出さなければ出なくなっていく様だった。『吾』は血を注ぎ込んだワイングラスを手にして、ゆっくりと口元で味わいながら飲み始める。
「だが、それも今夜で全てが終わる。女は最高だし、酒も美味い。心は平穏に満たされ、お前に心配されなくても幸せだし、ましてお前の相談に乗る必要もない。」
「それなら…この先はお前の支配になるのか…?」
『吾』は大声を上げてこの俺を笑い飛ばし、同時に黒いフードの下から、鋭い眼光でこちらを見つめている。
「肉体や精神の支配など、もとより望んではいない。望むのはこの世界で神であるべき『自分』の、抑え込まれた魂の成就だ。あのお方は地獄へ行くべき人物ではない。なのに、たった一つの過ちで機会を奪われる事など、この『吾』は断じて許す事は出来るはずがない。」
やっぱり…『僕』の言った通り純粋無垢主義か。しかし、こいつも助けろだなんて無茶な相談だ。こいつを本能エネルギーにもう一度叩き込めれば、どれほど楽な事なのか…。だが、もう本能エネルギーも奴の言いなりなのだろう。どうすればいい…?
「?!!」
突如として辺りに地響きが訪れた。まるで地割れでも起こすかの様な揺れで、無造作に辺りのものを手当たり次第になぎ倒していく。
「ようやく…決断された。」
「決断?!」
「そう…。我々自意識過剰の淘汰を…。」
何だと!?そんな馬鹿な?!自分が全ての記憶も自意識も捨てて、死を選んだというのか?激しく揺れてゆく玉座にしがみつきながら、『吾』は腰下ろして、黒いフードをゆっくりと深呼吸をしながら頭から外す。出てきた顔は筋だらけで肉を失った、頭蓋骨に近い痩せこけた老人の『吾』の顔だった。
「もう嫌ってほど…気付いただろう?我々は、元々必要とされてはいけなかったんだ…。忌々しい手首の傷のお陰で、その生きる術として我々が生まれた。そしてあのお方は、全ての自意識をも全て自分の人格として意識して生きてきた。だから我々は多重人格ではない…。それはあのお方こそが選んだ生き方だった。裏切られてもなお、人と関わり生きていきたい、そう願うからこそ、あのお方の御心のままに我々は働いてきた。だが、もういいだろう…。我々は十分に働いたじゃないか。」
《無限の三円塔城 希望の塔》
『我』は崩れゆく希望の塔の中で、蘇生の水を浴びている『僕』を必死で守っている。干からびた姿になった『僕』の左手首からは、傷が光を失って消えていく。『我』も自らの手首を眺めた。傷が徐々に光を失って消えていくのがはっきりと分かった。
「あれ程の酷な記憶で希望を失っただけでなく、夢も理想も取り戻す事が出来ないまま貴方は消えてく運命なのですか…?私のささやかな貴方への妬みから、『吾』の口車に乗ってしまった我を心から後悔しています。」
それでも『僕』ピクリとも動かないまま、『我』に抱きかかえられている。
「いえ…、我はまだ、この時点でも逃げていました。貴方を苦しめたのは、この我の弱き心でしかありません。貴方を心から信じていれば、傷つく事を恐れずにいれば、夢と理想を今でも信じていたでしょう。」
《記憶の狭間 改悛の玉座室》
『吾』は、ゆっくりと左手首の傷を見つめて、優しい眼差しで微笑み始めた。俺も自分の左手首を見つめた。傷はまるで植物の様に、肉体と同化して消えようとしていた。
「お前…。まさか?」
「ああ、その通りだ…。今、本能エネルギーは…身体中の全ての機能に働きかけ、治癒力を…増幅させている。」
「自分をデバイスにしているのか?」
「当然だ…。この身を削ってでも、必ず…あのお方の傷だけは…直してみせる。」
「何故、そこまでして?!」
「お前達が…腑抜けだからだ。夢や…希望を安易に口に出し、絶望の現実を批判して…悲劇から逃れている…だけ。」
人差し指を震わせながらこちらに向けて、ある幼馴染のK央が言った言葉を思い起こさせた。
「いずれ失うのなら…始めから…夢や希望、絶望や悲劇を持たなければ…いい。」
『吾』は最期の力を振り絞って、先程の血のワインを飲み干し、猛虎の形相で『九つの尊厳』を叫びあげた。
「命は!粗末に扱う物ではない!」
「命は!自ら傷つける物ではない!」
「命は!遊び道具ではない!」
「命は!駆け引きの材料ではない!」
「命は!犠牲にされる物ではない!」
「命は!全うすべきものだ!」
「命は!敬意を払うべきものだ!」
「命は!一つではない!」
「命は!みな、すべてなのだ!」
その時、一筋の刃が『自分』抱いてるはずの『私』の背中を貫いた。
「痛い!」
更に無数の刃が『私』の全身を切り裂いた。『吾』はその様子に、驚きを隠せない様子だ。
「一体?!何が…起きたんだ?!」
更に無数の小さな刃が『私』の身体という身体を突き抜ける。それら全ての刃の根元は、全て『自分』の身体から出ていた。『私』は必死に懇願している。
「痛い!助けて!お願い!」
だが、彼女の悲痛な叫びは『自分』には届かない。『自分』はゆっくりと立ち上がり、笑いながら右手に持ったナイフを左手首にのせる。
「ハッハッハッハッハッハ…。」
『自分』の右手は、ヴァイオリンの弓で弦を弾くように、左手首を素早く切り裂いた。
続く




