第八十話
本当に死のう…。もういいんだ…。
家に帰って、両親も兄妹も誰も起きてなかったら死のう…。
タクシーを自宅そば迄連れてってくれた。後は独りで歩くだけ。夜はなんて静かなんだ。夏だというのにひんやりしてる。玄関灯は消されて真っ暗だ。鍵も掛かってた。なんだよ…。
広間は真っ暗だった。みんな寝ちゃたんだ…。そんなもんなんだ。本当にこれから死ぬんだ。だからせめてみんなには、一言くらい遺しておかないと…。
先ずはK美さんの家に電話しよう。電話はお義母さんが出た。まだ自宅には帰っていないみたいだ。それでも何度も気になって電話したけど、今度は出なくなってしまった。
そうしたら今度は課長の自宅だ。でも、誰も出てくれない。
そうだ…。二十年来の幼馴染のK央の所だ。あいつに電話して、もし出てくれたら全部話そう。そして命乞いをしよう。助けてくれって本気で頼もう。そしたら…。そしたら自殺を止められるかもしれない。
何度も電話したが、家は留守だったのかもしれない。それとも拒否されたのかもしれない。もういいや…。
広間のテーブルで両親か、兄妹降りて様子を見てくれるかもしれない。ここで待ってれば、止められるかもしれない。なんて静かなんだよ…。
遺書を書いた。何を書いたかなんてどうでもいい。どうせみんなが見るのは死んだ後だ…。なんで?誰も心配してくれる人はいない?
薄暗い廊下を通り、洗面所へ向かった。鏡を見つめると、酷い顔が映っている。これがこれから死のうと思っている人間の顔かと思うと、泣けるよりも笑えてきた。腹からなんかじゃない。胸からやあご骨から笑いが弾けてくる。多いなる皮肉さ。本当に死のうと思っているのが、滑稽で可笑しくて堪らない。本気でやるのか?って言いたい。あ…。果物ナイフだ。
そういえばまだ返してなかったや。
部屋の天井に跳ね返った笑い声が包み込むと、いつの間にかに服を脱いで、全身全裸になって、風呂にお湯を溜めている。やり方がよく分からないから、ドラマの真似でいいや。
もう一回、鏡に映った姿を見かけた。まだ笑っている。目尻に涙を溜めながら、もう止まらなくなっている。笑うしかない。笑って誤魔化すしかない。
今度はシャワーを垂れ流して、頭からシャワーを浴びてみた。それでも笑って開いた口は閉じない。なんとも惨めで面白くて堪らない。目尻に隠した涙は、注がれた水と一緒に流れていった。後頭部にシャワーを浴びながら、床の丸い紺色のタイル一つ一つを眺めていると、それさえも涙とシャワーで滲んでしまう。左手首をゆっくりこちらに開いて見せた。本当に綺麗で血管が浮き出ている。右手でゆっくり果物ナイフを手に取った。
うん、死のう…。
もうイイよね?
まるで注射を待つように左手で拳を作り、果物ナイフを握った右手を近づけた。笑いが止まらない。今でもこんな事をしている姿が信じられない。
小刻みに揺れなが動く二本の筋の上に、ナイフを乗せた。顎が外れるほどに、笑いが全く止まらない。
本当に…全く…。
もういいや…。
「!!」
「え?!」
振り向くと、そこには全裸のK美さんが立っていて、僕の右手を止めてくれた。
「なんで…?」
「死んじゃ…駄目。」
だって、あんたが、あんたが全部いけないじゃないか…。あんたが僕を苦しめたんだよ。なのに、それでも止めるの?
「ずっと心配だったの。」
家にも電話しちゃったよ。そしたら帰ってないって…。
「だからここにいるんだよ。」
それじゃ、どうしてさっきあんな酷い事を言ったりしたの?
「本当ごめんね…。」
K美さん…。謝らないで!僕が悪いんだ!泣かないで!
「本当にごめんなさい。もう、何処にも私は行かないから…。」
K美さん、本当に何処にも行かない?
「うん、貴方を愛してるから…。」
僕は無造作に果物ナイフを投げ捨てて、裸のK美を抱きしめた。そう、この緩やかな肌の感触。僕はいつまでも、ずっとこうしていたかったんだ。もう、一生離れたくない。離れるもんか。僕はここに留まって、何度も何度もK美さんを…。
「私を許してね…。」
うん、もちろん許すよ。だって、貴方がいつでも好きで愛してるから…。
「私も貴方が大好き。」
本当に?!本当に?!
「だって、私を助けてくれたのは、世界中でたった一人。貴方だけだったから。」
僕はK美さんを絶対に放すもんか!僕は幸せになりたいんだ!その為に生きているんだ!
だって、僕は死ぬために生まれたんじゃないんだから…。
ありがとう…K美さん。
僕は貴方と出逢えて、本当に良かった…。
終わり
《記憶の狭間 改悛の玉座室》
『吾』は一筋の涙を流した。
これで全てが解放されていく。この記憶は幸福という結末で書き換えられた。命は救われるべきものなんだ。
現実がどれ程過酷であろうかなんて関係無い。自分が望む物が、自分の望む者が、そして自分を望む者が、ちゃんと手に入らなければ、幸せになんかなれない。物語には、必要以上の追求など要らない。『吾』が望んだ事は正しかった。この物語を書いている私も、この物語を読んでいる貴方も、全ては間違った解釈の中で、何かに臨んで生きているんだ。
しかし、その臨んでいる現実の中で、今、手にしている物が、本当の幸せだと言えるのだろうか?貴方はそうは言っても心から幸せだとは言い切れず、何処かで妥協するか、もしくは自分が変わる事で、克服したと思い込んでいる。
同じ思い込むのなら、何故自分の思うように思い込まないのだろうか?現実を捨てて、生きる事を止めて、働く事を辞めて、何時の間にか背負った責任などを下ろして、好きな記憶の中に自分を閉じ込めれておけばいい。自分の弱さも強さも必要の無い世界で、他人と争う必要の無い世界で、他人の意見を批判する必要の無い世界で、貴方はたった一人でも生きていけるはずだ。
たった一人なのだ。
親から教わった愛情も、他人から教わった知識も、自分で身につけた知恵も、何処かで誰かを必ず傷つけている。貴方は必ず誰かの犠牲の上に立っている。貴方の正義感も愛情も、ほかの誰かを幸せにする事などない。
それは全部思い込みなのだ。
男女の愛情は幻想でしかなく、心の脆弱な人間同士が、肩を寄せ合って怖がっているだけだ。貴方という人間に魅力を感じなくなった時、相手は真っ先に貴方を裏切るだろう。そしていとも簡単に貴方を忘れる。
人間は都合の良い生き物で、辛い過去を忘れやすい様にできている。貴方がもしその辛い過去を忘れられないとするならば、貴方は本当に幸せ者でしかないんだ。それは貴方が忘れたくない、そして留まっていたい場所だから。
本当に長い時間を掛けて、読んでくれてありがとうございました…。私は貴方がこれより旅立つ事が楽しみでなりません。貴方は、これから辛い過去に手を差し伸べて、貴方自身を助ける時がきたからです。
その方法が分からないのなら、いつでも…私は相談に乗りましょう。
「フッ…では、早速『俺様』の相談に…乗ってもらいたいものだな?」
そこには、険しい表情で『吾』を睨んでいる俺がいた。
続く




