第七十九話
"好きでも何でも無いの!ただ!部長と課長に言われただけなの…。"
タクシーの後部座席から、光を奪われた暗闇の街を覗いていた。日常の雑踏も騒音も、空虚な街並みでは今は奏でられない。人がいないだけで、これ程迄無責任な風景になるなんて。
無責任…。まさにK美に当てはまる言葉だ…。今更恋愛じゃなかったって言われても、信じられない…。
信号はもう既に通常の機能をはたしておらず、赤信号の点滅を繰り返してるだけ。赤の点滅なんて嫌な色だ。その時僕は、K美の左手首から滴り落ちる血の色を想像した。
一つ目の傷は…部長とのだったのか。あの傷はだいぶ完治していたみたいだし…。結局、部長はK美と不倫していた。多分、奥さんと別れてくれとかなんとかで、手首を切ってから厄介になったんだろうな…。
二人は今でも付き合いがあるんだ。だから、やたらと二人で仕事がバッティングする時もあったし、俺との約束なんて、守る気持ちは最初からなかったんだ。だから、K美は約束を破っても絶対俺には謝らなかったんだ…。
「あの…お客さん、横浜新道へはこの先の二本目を左でいいんですよね?」
「あ、はい…。この先の二本目です。」
二本目…。K美の手首の二本目の傷は、やたらとカサブタがあって、抜糸もされてなくて痛々しいかったなぁ…。あれを見たときに、本当にこの人は自殺ができる人なんだって思った。まさか、あの傷が課長の前で切った傷なのか…。
そういえば、自分が初めてK美さんと会ったあの日、課長はやたらと物色するようにK美を見ていたっけ。いい女だな?なんて俺にも聞いてきて…。
もしかしたら、厄介者を押し付けられた課長は、単なる浮気相手としてはK美は好都合だったのかも。婚約者がいるのにK美と浮気して、また婚約者と別れてくれとかなんとかで、今度は本人の前で手首切った。
「横浜はまだ二度目なんで…。」
「二度目なんですか…。」
二度目…2nd virgin…か。
抱かれた時に、K美は嬉しそうに微笑んでいたっけ…。宮殿の扉をノックした事も教えてくれたし、桃の果実達を摘んだ事もあった。洞窟に湧き上がってる滑らかな水や、押し寄せる波は本当に最高だった。何度も彼女を感じて包まれたかった。だから会いたかった気持ちは強かったのに、それがたった一回だけだなんて…。
その時、自分の左手首を眺めた。まっさらで綺麗な筋が二本際立ってる。たまに毛細血管がトクトク波打ってるのが分かる。こんな所切ろうなんてする行為は、本当に正気の沙汰ではない。
でも、俺も同じような事をしようとした。相手が卑怯だからだ。私の気持ちを理解していないと言うだけで、平気で嘘をつき、決して自分が悪いだなんて思わない。何故そこまで冷たくできるのだろう。愛してる人に対して。
"愛してる…って何?"
愛してるって言うのは…相手の為に自分を犠牲にしても構わないと、心から思えるような愛を捧げる事。
"それじゃ、君にとって愛は何?"
愛は…決して一点の曇りも無いような純粋な気持ち。
"君はずっと勘違いしている。私、君と付き合ってもいいなんて、一言も言ってないし、好きだなんて言った事無い…。"
俺の…勘違いだったのか…な。だって、付き合うって好きじゃなければ、無理でしょう?違うの?
"大体、君は人の弱みを握ったように、何度も何度も私を守りたいだなんて、軽々しく口にしないでよ!"
弱味なんて握ったつもりなんか…。
僕は課長から聞いたんだ。覚悟をして、押し潰されても構わないって思って。
"全て話してください…。"
"K美は自殺しようと手首を切ったんだ"
だって、課長があの時は、お前が支えてあげないとって…。違う…。どうしても俺に…押し付けたかったからなんだ…。だって、あの時は、デートの約束しか…。そうだよ…付き合っても、なかったじゃないか…。
でも、K美さんはちゃんと好きだって言ってくれた。
"私も君の事好きだよ。本当に、前から気になっていたの。一緒に頭下げてくれた時も、本当にビックリしたけど嬉しかった。"
好きだって言ってくれた…のも、全部部長や課長に言われたから…?
"だからそうやって私を不幸な女と決めつけて、自分が守るだなんて口だけじゃない!"
口だけじゃないよ。僕はあなたを命を掛けて愛してるんだ。失ったら何も残らないんだ。
"汚らわしい!近寄らないで!"
僕はこの手で…相手を思いっ切り叩いた。守るべき女性に…手を上げた。なぜ、そんな気持ちが…。自分が…相手を気に食わなかった…からだ。
何も理解して…くれないから…。好きな時に批判して…。何も分かってくれない…。
タクシー運転席の首元に、白い生地のカバーが掛かってる。目を閉じると、あの時ベッドの上で波打ったシーツが甦る。三日月の分だけ求め時間を…。
切ない…無性に独りが寂しくて、涙が止まらない。僕らは結婚するはずだったんだ。皆から祝福されて…。僕はこの女性を愛する事で、英雄になれたんだ…。
英雄…?僕が?そんなものの為に…皆から祝福されたいために…。
"いつも君は私の事、心配心配って言うけど、私の事、不幸な女とでも思ってるわけ?"
木造モルタル二階建てのアパート。埃だらけの廊下…。K美さんの自宅は余りにもイメージと違っていた。何処かで不幸な女性と見ていたかもしれない。俺はなんて最低なんだ…。
"大人ぶって偉そうに心配してるなんて言わないで!君が正しいと思ってる事が、全て正しいとは限らないんだから!"
全部間違っていた…。そうだよ…。僕は自分が正しいと、信じて疑わなかった。僕が幸せにするんだって。でも、駄目だった。我慢できなかった…。
ここには…誰も僕を祝福してくれる人なんかいない。命を掛けたのに、嫌われるなんて…あんまりだ。酷すぎる…。
"大体君は、手首を切った人の気持なんてわからないくせに…"
そうだよ…。僕は…一番知らなきゃいけない事を…まだ知らなかった。本当に…命を掛けて…なかった。
"手首を切った人の気持なんてわからないくせに…"
本当だ…。全然知らなかった。
"手首を切った人の気持なんてわからないくせに…"
手首なんて切った事もなかった。
"手首を切った人の気持なんてわからないくせに…"
人の気持ちなんて分からないよ…。
"手首を切った人の気持なんてわからないくせに…"
分からないくせに、僕は…。
"手首を切った人の気持なんてわからないくせに…"
そうだ…。僕の気持ちだって、分かってくれないのに!
"手首を切った人の気持なんてわからないくせに…"
そんなに手首を切った人が偉いのかよ!
"手首を切った人の気持なんてわからないくせに…"
…もういいや。
死のう…。
続く




