第八十二話
「切っちゃったよ、俺。はっはっ…。」
口に出したのは、この一言だけだった。バスルームでは、紺色の丸いタイル群にシャワーが叩きつけられてる。
押さえたら負けだ。押さえたら負けだ。傷口は押さえたら負けだ。僕は湯槽に浸かり、その時が来るのをゆっくりと目を閉じて待っていた。
今度は自分の葬式で、多くの人々に嘆き悲しんでもらうんだ。ようやく解放されるんだ。もう傷つく事も無いし、悲しむ事も無い。それぐらいの夢は、見せてくれたって…いいよね?やっと、僕は死ねるんだ…。
俯いた鼻先には、鉄の匂いと共に溢れ出す血が侵食している。それでも自分は決して目を開こうとは思わない。このまま…このまま…じっとこうして…。
"大体君は、手首を切った人の気持なんてわからないくせに…。"
もう、そんな事誰にも言わせないよ。K美、お前にだって言わせないよ。お前は僕を救えなかったじゃないか…。さっき僕を救ってくれたのは、僕が作り出したお前の理想像。でも、それは僕には優し過ぎる…。だって、お前は僕の事を、今まで一度も『貴方』だなんて呼んでくれた事は無かった…。そんな優し過ぎるのはK美じゃない…。
自分の気持ちが乗っていれば、優しくて素直で、出来るだけ応えようとしてくれる。でも、気分が乗らなければもっと冷たくて、どんな時にでも頭を下げず、謝ったフリをして誤魔化し、そして簡単に人を傷つける。だから、俺は今からお前に復讐するんだ。そして、それを胸に抱えて苦しんでくれ。頼むから苦しんでくれ。苦しんで泣き叫んでしまえ。
俺は目を少し開けて、辺りの様子を伺った。タイル張りの床は一面血だらけ。なんともむごたらしい紅海の中に、自分の後悔がぶちまけられている。手首に痛みは感じない。ただ生熱いだけ…。それ以上に心が痛い…。痛くて痛くて、自分を掻き毟っても掻き毟っても、全然泣けない…。自分が可愛そうだ…。何も無し得ることもなく、ただ大きな、大きな、大人の社会の歯車に押しつぶされた。もういい…。目を閉じよう。
蛇口から…水滴が落ちた。
また、水滴が落ちた。
水滴が落ちた。
涙が…落ちた。
蛇口から…水滴が落ちた。
…。
涙が…落ちた。
…?
“おい、このままじゃまずいぞ…。”
うん…。確かにまずい、確かにまずいよ…。俺、このまま死んじゃうよ。何やってるんだよ?左手首ぱっくり開いてるじゃんか。心臓もバクバクいってるじゃんか。いっぱい血が流れてるじゃんか。うん、ちゃんとしなきゃ。うん、大丈夫。起き上がれた。うわ、いっぱい流れてるや。まずいよ、まずいよ。洗面台に戻ると、鏡には血の気の引いた自分の顔が映っていた。
「あは、はははははははは…。」
もう、ヤバイよ。これ現実なんだ。洗面台にも血がどくどく流れている。タオルで巻かなきゃ!血が収まらない。うわ、どうしよう。あった!そうそう洗面台の二段目の引き出し。
真っ青なタオルを左手首にグルグル巻いた。あっという間に真っ青なタオルは、血で滲んで真っ黒になっていく。足りなくて、もう一枚、真っ白なタオルを取り出して巻いてみるが、それもあっという間に真っ赤に染まっていた。不思議と立ち眩みはなくて冷静だった。周りの全てがはっきりと記憶されている。酔っている時の方が、フラフラしている感じだ。とにかく手首からこれ以上血が漏れないように、ギュッと抑えてみた。徐々に左手全体の感覚が薄くなっていく。何だか疲れたな…。
手首にタオルを巻いたまま居間に戻り、テーブルの上で両腕を枕にして寝る事にした。
こんなに待っているのに、誰も僕に気が付いてくれない…。ずっと、ずっと誰もかれも味方のふりをして、何一つ自分の内面を見てくれはしれないんだ。笑っている自分しか認めてくれない。素直で言うことをきく分かりやすい自分でなければ、色を変えてくる。だから合わせなくちゃいけなかった。他人にも、恋人にも、親にも、親友にも、会社にも、社会にも。なのに誰も少しも自分に合わせてくれない。どうして?どうしてなんだ?
夜はなんて残酷なほど静かなんだ…。
もし、もう一度だけ…。誰かが気付いてくれたり、誰かが声を掛けてくれたり、誰かが電話をしてくれたら、僕は人をもう一度だけ信じるよ…。こんなことしてしまった、僕を心から恥じて、ちゃんとマトモに生きるよ…。
ねぇ!僕はここにいるんだよ!
今、僕は死のうと思って手首まで切ったんだよ!どうして誰も返事してくれないの?そのくらいのワガママも聞いてくれないの?だって、もし、自分から誰かに助けを求めたら…。
僕の心は凍ってしまうんだ。
僕は固まってしまうんだ。
僕は何も信じられなくなるんだ…。
ドウシテモ…駄目ナノ?
ボクハ…誰モ…信ジラレナイ。
嫌ダ…。モウ、嫌ダヨ…。
誰デモ…誰か…誰か…誰か…。
助けてよーーーーーー!!
電話が鳴るわけが無い。
夏なの冷たい明け方には、彼のささやかな想いは誰にも伝わらわけがない。現実とは、幻よりも指の間をすり抜けていく。誰にも見捨てられた彼は、心をしっかり閉ざしたまま、気が付いた時には、両親寝ている寝室の扉を叩いていた。
「母さん、父さん。手首切っちゃったよ…。」
続く




