第六十四話
絶望の中で、必死に自分の希望へしがみつく行為は、それ自体が危うさと脆さに支配されている。何故ならばそれはもう希望ではなく、既に何の根拠も無い賭けだけに変わってしまっているからだ。
スナック『アケミ』の看板まで独りで呑んでいた。さすがにアケミさんも気がついたのか、僕をそっとしてくれるように、Closedの札を掛けてくれた。たまに夏の夜風にその札が吹かれ、トビラにカタカタっと音を立てると、あの入り口での出来事を思い出してしまう。心から好きな人のなのに、部長と話していたK美さんの声だけは、どうしても、受け入れる事だけは出来なかった…。
僕は一体、K美さんにとって何だったのだろうか…。落ち込んでいるはずなのに、ひどく指が震えて止まらない。相手を思う気持ちはあるのに、決して穏やかにはなれず、ただひたすら奥歯で何かを噛み締めるような儚さ…。もし、今でもK美さんが部長の事を好きだとして、それでもどうして僕と会ってくれたんだろうか…。僕が約束した想いに、何故全身で答えてくれたんだろう…。悔しさと寂しさが頬を伝い、カウンターへポツポツと垂れ流れた。涙だ…。奥歯では歯ぎしりしているのに、僕は置いてけぼりを喰らって泣いているんだ。
また再び、カタカタっとClosedの札がトビラに当たる音がする。今度は滲んでハッキリ見えなかった。落ちてしまえば良いのに…。そんなに必死にしがみついて、一体何の得になるんだ。
「あの~大丈夫?」
「あ、アケミさん…。お気遣いありがとうございます。」
「本当に大変ね…。」
「いえ…。」
「そうだ、今日はご近所からメロンいただいたから食べる?」
「あ、お構い無く…。」
けれど、アケミさんは手馴れた手つきでメロンをさばいていた。店内にメロンのサクッサクッと、心地良く切れる音が包んでいた。
「しかし課長さんも大変よね?」
「はい…?」
「ほら、あの娘さんが取り乱した時、いつも手伝わされるんでしょ?なのにさっき部長さんに『また俺に迷惑掛けて~!』なんて怒鳴られてたじゃない?婚約者がいる人なのに、いつも部長さんの使いっ走りじゃ大変よね?」
「…。」
その時、突然ピンク電話がけたたましく鳴った。
「はい、『心にオアシスを…。』スナック『アケミ』でございます。」
まさか…課長から…?
「あら、イヤだ~!ケンちゃんじゃない~。」
違うみたいだった…。僕は途中まで切られたメロンを、落胆してジッと眺めていた。
「ここまでの道忘れたですって?ケンちゃんは本当に駄目ねぇ~。分かった、今から迎えに行くから。うん?もう!エッチなんだから、すぐそればっか~。うん、はーい。」
アケミさんはどうやら話を終えたらしい。
「ごめんなさい。ちょっとお客様迎えに行かなくちゃいけなくなったから…。」
「あ、それじゃ…自分はそろそろ…。」
「そんな事言わないで、メロンだけは食べてって。すぐ帰るから。」
もしかして留守番させるつもりじゃ…。しかし、アケミさんはそのままスムーズに表に出てしまった。僕は果物ナイフをカウンターによけて、置き去りになったメロンを手元に引き寄せた。そしてメロンを見ながら、アケミさんが言ってた言葉が、メロンのサクッと切れる音と共にこだまする。
なんで課長は部長に迷惑を掛けているんだ?もし、K美さんが本当に部長と付き合っていて、それでこじれているなら、いくら上司でも公私混同過ぎる。課長もアケミさんが言うように婚約者がいるのに、あれじゃまるで弱みを握られてる人みたいだ…。弱み?
先ほどよけた果物ナイフの先は鋭く、メロンの果汁で湿っていた。K美さんはあんな鋭い刃物で、自分の左手首に傷を二本も付けたのだろうか。何で二本も付けたのだろうか?
ついに、カタカタ鳴っていた札が夜風に吹かれて、地面に落ちてしまった。やっぱり、僕の知らない所で何かがあり過ぎるんだ…。明日、直接部長に聞いてみよう。僕はその果物ナイフを手に取り、胸ポケットに入れて店を出た。
続く




