諸君!
熱狂。それは時に、どんな最新兵器よりも恐ろしい力となる。
ハーケンクロイツ国の首都。数十万人を収容する巨大な広場は、黒と赤の鉤十字の旗で埋め尽されていた。夜空を切り裂く幾筋もの巨大なサーチライトが、中央の高くそびえる演壇に立つ一人の男を照らし出している。
ウォルフ総統。
先の敗戦で全てを失い、貧困と屈辱に喘いでいた国民を、その圧倒的な弁舌のみでまとめ上げた天才的な扇動家。彼がマイクの前に立つと、数十万の群衆は一瞬にして水を打ったように静まり返った。
ウォルフはゆっくりと群衆を見渡し、静かに、だが腹の底に響く声で語り始めた。
「諸君、私は戦争が好きだ」
その唐突な一言に、群衆は息を呑む。ウォルフの目が、暗い歓喜に怪しく光った。
「なぜなら、勝てば全てを奪えるからだ。
……諸君、私は戦争が大好きだ。
電撃戦が好きだ。挟撃戦が好きだ。装甲師団による蹂躙が好きだ。急降下爆撃が好きだ。
平原で、街道で、塹壕で、凍土で、泥濘で。
この地上で行われるありとあらゆる戦争行動が大好きだ」
彼の声は、まるで呪文のように人々の鼓膜から脳の奥底へと侵入していく。
「轟音と共に放たれた砲弾が、敵の陣地を兵士ごと木っ端微塵に吹き飛ばすのが好きだ。
空中高く舞い上がった敵兵が、我が軍の機銃掃射で蜂の巣になって泥に伏す時など心がおどる。
無敵の戦車の隊列が、敵の防衛線を紙切れのように踏み荒らしていく様は胸がすくような思いだった。
パニックを起こして逃げ惑う敵兵を、急降下爆撃機が金切声を上げてなぎ払う時など絶頂すら覚える!」
その言葉の一つ一つが、敗戦の屈辱を味わってきた国民たちの心の奥底にある「暴力的なカタルシス」を刺激していく。
「思い出してほしい! 先の大戦で、我々は敗れ、全てを奪われた! 領土を削り取られ、天文学的な賠償金を背負わされ、誇り高き我らが民族は飢えと泥水の中で地を這った。
だが、今はどうだ? 我々は再び立ち上がり、世界最強の鉄の牙を手に入れた!」
ウォルフは演壇を強く叩いた。
「東を見よ! あの肥え太った豚のような大帝国を!
広大な領土と無尽蔵の資源を持ちながら、辺境の小国一つまともに落とせず、泥沼で無様に足掻いている!
あの愚かな豚どもは今、小国にかまけて西方の国境を完全に空け渡しているのだ!」
演説の熱は、完全に群衆へと感染していた。狂気の渦が広場を沸騰させていく。
ウォルフは群衆の熱狂を一身に浴びながら、静かに、だが底知れぬ圧を込めて問いかけた。
「ではどうする、諸君? 君たちは一体、何を望む?」
その問いかけに、数十万の群衆のタガが完全に外れた。地鳴りのような怒号が広場を揺らす。
『戦争!! 戦争!! 戦争!!』
狂気に満ちたその大歓声を満足げに聞き届けた後、ウォルフは革手袋の拳を天高く突き上げ、マイクが割れんばかりの絶叫を響かせた。
「よろしい、ならば戦争だ!!」
その一言が、決定的な引鉄となった。
「勝者が全てを奪う! 奴らの無防備な背中に、我が国の無敵の装甲師団を叩き込め! 防衛線を蹂躙し、都市を焼き尽くし、あの巨大な豚の喉元を食い破れ!!」
涙を流し、喉が裂けるほど叫び、狂喜する市民たち。彼らは完全に熱狂の虜となり、自らが引き起こす破滅的な戦争の熱に酔いしれていた。
この大演説により、国境に集結していた数千両の戦車と数百万の兵士たちは、怒涛の勢いで帝国への侵攻を開始したのであった。
「……ウォルフの狂人は、帝国の全兵力を真正面から相手にするつもりか」
コラール川の王国軍陣地。
奇跡的な生存を果たし、歓喜に沸く兵士たちの中で、ガルド大尉だけは一人、傍受した無線から流れてくる情報を聞き、ひしゃげた葉巻に火をつけていた。
『――ハーケンクロイツの電撃的な侵攻に対し、帝国軍は無尽蔵の予備兵力を投入。両軍は平原地帯において、数百万規模での正面衝突状態に突入……!』
「大尉、我が王国軍もこの好機に乗じて反転攻勢に出るべきでは!?」
息巻く副官に対し、ガルドは冷酷なまでに静かに首を横に振った。
「動くな。防衛線を維持し、一歩も引かず、一歩も出るな」
「しかし、それでは……」
「わからないのか。これは『戦争』じゃない。化け物同士の『共食い』だ」
ガルドは地図上の、帝国とハーケンクロイツ国が激突している広大な平原を指差した。
「人を人とも思わず、命を使い捨ての駒としか考えない権威主義の帝国。そして、狂信的な選民思想と略奪の大義に酔いしれるハーケンクロイツ国。どちらも、狂気という燃料で走るポンコツの機関車だ。ブレーキの壊れた二つの巨大な鉄の塊が正面衝突すれば、どうなる?」
ガルドの言葉に、副官はハッと息を呑んだ。
「どちらが勝とうが関係ない。数百万の人間が肉挽き機にかけられ、両国の国力、経済、そして『国家としての機能』そのものが修復不可能なレベルで完全に粉砕される。……俺たちのような小国が血を流して加勢する必要はねえ。防衛線だけを固めて、奴らが勝手に相打ちになって滅びるのを待てばいいんだ」
それは、戦術家としての冷徹な計算であり、同時に、人間の命を軽視する大国に対する痛烈な皮肉でもあった。
その時だった。
「……大尉」
振り返ると、そこにレオンが立っていた。
全身泥と煤にまみれ、凍傷で肌はボロボロになっているというのに、手には愛用のライフルがしっかりと握られている。
「許可をください。俺は、これより帝国領内へ向かいます」
「……あいつらが勝手に滅びるのを待てねえのか。アリシアを連れ去った奴らも、遠からずこの共食いで死ぬぞ」
「関係ありません」
レオンの黒い瞳は、ひどく静かだった。
彼が求めているのは、国家の勝敗でも世界の平和でもない。たった一つの大切なものを取り戻すことだけだ。
ガルドは長く葉巻の煙を吐き出し、ふっと笑みをこぼした。
「……なら、お前の個人的な『寄り道』に、部隊ごと付き合ってやるよ。国のためじゃねえ。人が人のためだけに動く戦争が一つくらいあってもいいだろう」
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