釣り野伏せ
「正面からまともにぶつかるのは、もう限界だな」
薄暗い雪壕の中、ガルド大尉は地図の上に散らばった敵の駒を指で弾き飛ばした。
新型戦車を退けたとはいえ、帝国軍の総兵力は依然として王国軍の十倍以上。弾薬も尽きかけている防衛隊にとって、次なる力押しの総攻撃を防ぎ切ることは物理的に不可能だった。
「だから、通してやる」
「……通す、とは?」
副官が怪訝な顔をする中、ガルドはニヤリと悪魔のような笑みを浮かべた。
「陣地を後退させ、わざと敵の中核部隊をコラール川の向こう側まで引き入れる。奴らが『防衛線を突破した』と浮かれ、深追いしてきたところを――後背を完全に遮断し、袋のネズミにする。いわゆる『釣り野伏せ』だ」
極寒の地での孤立。それはすなわち、弾薬と食糧、そして暖を取るための燃料の枯渇を意味する。補給が尽きれば、どんな大軍もただの凍える肉の塊に過ぎない。
「だが大尉、後背を遮断すると言っても、敵の補給部隊の進軍を止めるだけの兵力は我が軍には残っていません!」
「兵力はいらん。たった一人の『死神』がいれば十分だ」
ガルドの視線が、部屋の隅で静かに銃の手入れをしていたレオンに向けられた。
「レオン。お前一人で、敵部隊の後方――補給ルートである一本道を完全に封鎖しろ。ネズミ一匹、弾薬一箱たりとも通すな。……できるか?」
大部隊の補給線を、たった一人の狙撃手で遮断する。あまりにも無謀で常軌を逸した命令だったが、レオンは表情一つ変えなかった。
布で銃身の雪を拭いながら、彼はこともなげに、ただ短く頷いた。
「はい。やります」
その迷いのない瞳に、ガルドは満足げに葉巻の煙を吐き出した。
作戦は決行された。
王国軍が陣地を放棄して後退したのを見た帝国軍は、勝利を確信し、コラール川の隘路を越えて雪深い森の奥へと大部隊を進めた。
「ついに突破したぞ! 王国軍の雑魚どもを追撃しろ!」
意気揚々と進軍する帝国軍。しかし、彼らは背後で何が起きているかを知らなかった。
部隊の最後尾から遅れて進む、燃料と食糧を積んだ帝国の輸送トラックの車列。その先頭車両の運転手が、突如としてフロントガラス越しに眉間を撃ち抜かれ、ハンドルを切って雪の吹き溜まりに突っ込んだ。
タァン!
さらに後続の車両のタイヤが正確に撃ち抜かれ、横転して道を完全に塞ぐ。
後背の丘に潜むレオンによる、一方的な狩りの始まりだった。
「狙撃だ! 運転手を守れ!」
「だ、駄目だ! 護衛の機関銃手がやられた!」
レオンの標的は明確だった。運転手、通信兵、そして後続との連絡を試みる伝令のバイク兵。スコープを持たない死神の魔弾は、見えない距離から次々と「補給の要」だけを無慈悲に刈り取っていく。
トラックを捨てて歩兵が応戦しようにも、レオンの異常な連射能力の前に顔を出すことすらできない。結果として、雪道には無数のトラックの残骸と死体がバリケードのように積み重なり、巨大な「死の封鎖線」が完成してしまった。
「前線部隊へ告ぐ! 補給部隊が何者かの足止めを食らっている! 弾薬と燃料の到着は――」
その無線を最後に、前進していた帝国軍の本隊は後方との連絡を完全に絶たれた。
ガルド大尉の狙い通り、深く誘い込まれた帝国軍は、レオンというたった一つの「栓」によって後背を遮断され、見知らぬ雪の森の中で完全に孤立したのである。
夜が訪れると、気温は零下四十度まで落ち込んだ。
補給を断たれた帝国兵たちは、火を焚く燃料もなく、配給の食糧も凍りつき、極度の飢えと寒さに苛まれた。動けなくなった彼らを待っていたのは、地の利を活かしたガルド率いる王国軍の遊撃部隊による、夜間の奇襲攻撃だった。
「撃て! 凍えきった帝国の豚どもを楽にしてやれ!」
暗闇からスキー部隊が急襲し、一撃離脱を繰り返す。寒さと恐怖、そして弾薬の枯渇により、帝国軍は反撃すらまともにできず、次々と雪に倒れていった。
数日後。
コラール川を突破したはずの帝国軍の精鋭部隊は、文字通り「全滅」した。
レオンが築いた死の封鎖線は、最後まで一発の銃弾も、燃料、食糧も通すことはなかった。
このコラール川での「完全なる勝利」は、一兵卒の武勲という枠を超え、大きく政治的な波紋を呼ぶことになった。
『無敵の軍事大国、辺境の小国に大敗』
そのニュースは、中立を保っていた周辺諸国や、帝国に怯えていた他の大国に衝撃を与えた。「数日で落ちる」と言われていた小国が、地形と戦術、そして一人の天才スナイパーの存在によって、帝国の首根っこに深く牙を突き立てたのだ。
「帝国軍は無敵ではない」
この事実は、世界中の勢力図を一夜にして塗り替えた。
王国を見捨てようとしていた諸外国からは秘密裏に支援物資や義勇兵が送られるようになり、帝国内部でも軍の上層部に対する不満が噴出し始める。
レオンの引いた一発の引き金は、単なる復讐の銃弾ではなく、世界の運命を大きく変える「反撃の狼煙」となったのである。
しかし、その世界的な称賛も、政治的な優位も、レオンの心を満たすことはなかった。
作戦を終え、本陣のストーブの前で凍えた手を温めながら、彼は静かに己の手を見つめていた。
(……アリシア。俺はあと何人殺せば、お前を奪った奴らに届くんだ)
凍えるような静かな怒りだけが、今も少年の心で燃え続けていた。
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