第20話 崖の底で、白き仔犬を拾う
魔境特有の不気味な静寂に包まれた崖の底。
そのさらに奥の暗がりから、微かな、本当に微かな鳴き声が俺の耳に届いたのだ。
それは、ただの獣の鳴き声ではない。
明らかな恐怖と苦痛に満ちた、悲痛なSOS。
助けを求めるような、弱々しい命の叫びだった。
「なんだ……?」
俺は眉をひそめ、崖を登ろうとしていた姿勢を解いた。
常識的に考えれば、ここは魔境『迷いの森』だ。
どんな生き物が襲われていようと、それはこの過酷な自然界の弱肉強食のルールの範疇に過ぎない。
俺が介入する義理など何一つないし、何より今は一秒でも早く王都の診療所で苦しんでいるメリアの元へ帰らなければならないのだ。
無視しろ。俺の目的はもう果たした。そう自分に言い聞かせる。
だが。
「……きゅんっ……!」
再び響いたそのか弱く舌足らずな悲鳴が、俺の脳裏に、あの冷たい雨の降る裏路地でうずくまっていたメリアの姿をフラッシュバックさせた。
「……ッ、くそっ!」
俺は盛大な舌打ちをして、崖を背に踵を返した。
足に込めていた魔力を推進力に変え、声が聞こえた暗闇の奥へと猛ダッシュする。
頭では分かっている。
急がなければならないと。
だが、あの時メリアを拾って父親になってしまった俺の心が、弱者の悲鳴を放置して背を向けることをどうしても許さなかったのだ。
暗い洞窟のような岩場を抜け、少し開けた空間に出た俺の視界に飛び込んできたのは、ひどく胸糞の悪い光景だった。
「グルルルルルッ……!」
「ガァッ、ハァッ……!」
暗闇の中で、五つの赤黒い眼光が凶悪に光っている。
体長三メートルを超える漆黒の獣たち――ブラックウルフの群れだ。
通常のウルフとは比べ物にならない強靭な筋力と、鋼鉄すら噛み砕く鋭い牙を持つ、高位魔物。
奴らは口から酸性の唾液を垂らしながら、円を描くようにしてある獲物を完全に包囲していた。
その包囲網の中心、冷たい岩壁に背を向けて追い詰められていたのは――。
「……仔犬……?」
俺は思わず目を見開いた。
そこにいたのは、両手で抱えられそうなほど小さな、純白のもふもふとした毛並みを持つ一匹の仔犬だった。
だが、その美しい白い毛並みは泥と自身の血で赤黒く汚れ、小さな体にはいくつもの痛々しい裂傷が刻まれている。
仔犬は恐怖でガタガタと全身を激しく震わせながらも、必死に短い牙を剥き出しにして、自分より何十倍も巨大なブラックウルフたちに向かって「ウゥゥッ……!」と威嚇の声を上げていた。
ブラックウルフたちは、いつでもその小さな命を噛み殺せるはずなのに、すぐにはトドメを刺そうとしなかった。
ジワジワと距離を詰め、仔犬が恐怖に怯える様を楽しんでいるのだ。
前足で仔犬の小さな体を小突いて転がし、悲鳴を上げさせては、下劣な鳴き声を上げて嘲笑うかのように喉を鳴らしている。
命を食らうための狩りではない。ただの悪趣味な嬲り殺しだ。
「……おい」
俺の口から、地を這うような低い声が漏れた。
一体どうなっているんだ。
なぜ、こんな凶悪な魔境の底に、あんな無力な仔犬がいる?
だが、そんな疑問は今の俺にはどうでもよかった。
ボロボロになって、誰の助けも呼べず、圧倒的な暴力と理不尽の前に立ち尽くすその小さな姿が――俺には、熱に浮かされて泣いていたメリアと、完全に重なって見えたのだ。
「ガウッ!?」
俺の放った異常な殺気に気づき、ブラックウルフたちが一斉にこちらを振り返る。
奴らは突如現れた人間の姿に一瞬警戒を見せたが、相手がたった一人で、しかも剣すら抜いていない丸腰だと気づくと、すぐに獲物を切り替えたように獰猛な牙を剥き出しにした。
「弱い者いじめは、俺の趣味じゃないんでな」
俺は首の骨をゴキリと鳴らし、両拳を固く握りしめた。
「……いや。お前らみたいな腐った連中が、俺の視界の中で、小さな命をいたぶっているという事実が――死ぬほど気に食わねえんだよ」
俺の静かな怒りの宣告と同時に、ブラックウルフが四方から一斉に襲い掛かってきた。
鋼鉄をも切り裂く漆黒の爪が、俺の首筋や心臓を的確に狙って迫る。
「超・身体強化」
俺はただ一言、自身に支援魔法の極致を叩き込んだ。
直後、俺の全身から噴き出した黄金色の魔力のオーラが、周囲の大気を物理的に弾き飛ばした。
ドバァァァァァァァンッ!!!
「ギャンッ!?」
【作者からのお願いです】
・面白い!
・続きが読みたい!
・更新応援してる!
と、少しでも思ってくださった方は、
【広告下の☆☆☆☆☆をタップして★★★★★にしていただけると嬉しいです!】
皆様の応援が作者の原動力になります!
何卒よろしくお願いします!




