エピローグ
カチャ。カチャ。
深夜のリビング。綾子の鍵についた小さな黒猫のキーホルダーが分解されてゆく。
隆弘はそこから小型GPSを取り出すとそっと庭へ出た。
そして⸺躊躇いなくそれを踏み潰した。
「お役御免だ。さよなら」と微笑む。
その目にはかつての狂気の気配は微塵もなく、その言葉には一切の迷いがなかった。
「ふむ、では夜間の徘徊はなくなったと。ふむ…」
長谷川はしばし難しい顔をしてカルテを眺めていたが、
軽く頷くと、
「完治⸺或いは寛解か。いずれにしてもあと数回は通ってもらって、その間にも夜間徘徊がなくなれば⸺おめでとう、卒業だ」
その言葉に綾子をは目を輝かせる。
「ありがとうございます。先生のおかげです。本当に⸺ありがとうございました。」
そう言ってペコリ、と頭を下げる。
「いや、頑張ったのは君自身だよ。本当によく頑張った。これからはなんでもしたいことをするといい。」
と長谷川が返すと綾子はニッコリと微笑んで、
「車の免許を、取ろうと思うんです。大切な友人ととてもとても長いドライブをして⸺楽しかったから。」と返した。
長谷川は口髭を弄りながら頷くと、
「好きにするといい。君はまだ若い。可能性はいくらだってあるのだから。」と激励を送った。
季節は12月。
クリニックの裏の里山の木々もすっかり葉を落とし、ひっそりと静まり返っている。
綾子が診察室から出てくると隆弘が歩み寄ってきた。
「どうだった?」と尋ねる隆弘に綾子は微笑んで、
「あと数回通えば卒業って。」と返す。
「そうか…うん、そうか。本当に良かったな、綾子。」
そう言ってほんの少しだけ伸びた綾子の髪を撫でる。
「長谷川さん、お薬ができてます」
調剤室から声がかかる。
綾子は「いただいてくるわ」と一言いうと小走りで調剤室へ向かう。
柊に薬を手渡され、簡単な説明を受ける。
隆弘はただそれを穏やかな眼差しで眺めていた。
説明が終わり、薬を受け取ると綾子はひと呼吸おいてから柊に語りかける。
「本当に、本当にお世話になりました。私⸺忘れないわ。きっと、一生。」
そして深々とお辞儀をしてクリニックを後にした。
柊の胸に、チリチリとした痛みが走る。目を閉じて思い出す。あのとき重なりかけた唇。潤んだ瞳。
でも、あの人は選択したのだ。自らの力で。迷うことなく。
柊はふっ、寂しげにと笑うと次の患者の薬の準備に取り掛かった。
12月の風はとても冷たく、綾子は思わず身震いする。
(本当に寒くなったわ…あの夏の日が嘘みたい)
「綾子、おいで。今日は何か食って帰ろう」
隆弘が綾子を呼ぶ。綾子は隆弘の待つ車まで駆けていくと、「じゃあ、あのお店のピザで」と微笑んだ。
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「─ふむ。ある一定の時期からの記憶がない。そう言うことなんだね?」
長谷川は口髭を弄りながら患者に念を押すように語りかける。
20代と思しき女性は「そうなんです」と短く答えると言葉を続けた。
「思い出そうとすると、頭がそれを拒絶するというか…なにか靄がかかったようになって…どうしても思い出せないんです。そこから時々、記憶が欠落するようになって…私、どうしたらいいか…。」
その声は不安に満ちて震えている。
「ふむ。」と長谷川は答えると椅子をギッと鳴らして座り直し、その患者に語りかけた。
「過去視、という言葉をご存知かね?」
fin
長らく読んでくださいました読者の皆様、ありがとうございました。10年ぶりの執筆で至らぬ点も多々あったかと思います。
綾子、隆弘、柊をめぐるストーリーはここでおしまいです。
或いは⸺新しい始まりがあるのかもしれません。
ただひとつだけ言えることは、彼らは皆このストーリーの中で生き抜きました。
ときにひどく虐め、ときに優しさを見せ、私は底意地の悪い作家です。それでも⸺彼らがそれぞれの選択をして生き抜いた事をどうか褒めて下されば、それが何よりの賞賛です。
人は脆く、儚く、それでも足掻いて生きる美しさを持っています。
もしもこの作品でそれを感じ取って下さったなら⸺。
それでは、また逢う日まで。
※お知らせ
本日2026/04/06、まだ読んでくださっている方へ。
少し情景不足なところを加筆修正しました。
回りくどいところは逆に削いでいます。
これにて本当の、おしまい。




