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夢の監獄  作者: 杜 妃湖
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たった一つの誓い

あれから1週間。

綾子は小さな庭でDIYに勤しんでいた。

(あの人のようにはうまく塗れないわね…)

と、腕時計を見る。時刻は11:30を少し回ったところだった。

「とりあえず今日はここまでか…」

と綾子は独り言を言うと、タクシーを呼びいそいそと着替えて大量の荷物を抱え出かけていった。

庭にはぽつんと、黄色く塗り替えられた椅子が取り残されていた。


「秀峰会総合病院まで」短くそう告げるとタクシーは走り出した。


秀峰会総合病院西棟607号室。

隆弘は点滴に繋がれて眠っていた。

何度か過去視を経験した綾子とは異なり、一度に深くまで抉られた傷は、そう簡単には癒えない。

医者も首をひねる。

「バイタルに異常は見られません⸺念の為頭部MRIも行いましたが、何ら異常は見つけられませんでした。」


(あなたは今日も、眠っているのかしら)

入館手続きを終えて607号室に向かう。ノックを2回。そしてあのとき隆弘が「おいで」と言った位置まで簡素な椅子を持ってきて腰掛ける。

隆弘は眠っている。子どものような安らかな寝顔。

その頬に、髪にそっと触れる。


と、ノックの音がする。

綾子が「どうぞ」というとおずおずと入ってきた少女⸺雛子。

雛子は綾子と目が合うなり、

「ごめんなさい…!!」と頭を下げた。

綾子はそんな雛子に微笑みかけると、

「ここではなんだから、デイルームに」と雛子を促した。


デイルームの自販機でペットボトルの紅茶を2つ買って、一つを雛子に差し出す。

雛子はそっとそれを受け取ると再び、

「ごめんなさい…」と言って俯いた。

「私、綾子さんにとてもひどいことを⸺取り返しのつかないことを言ってしまったわ…時間泥棒だなんて…私…」

今にも泣き出しそうな雛子の手を綾子はそっと握る。

「雛子さん、顔を上げて。気にしていないわ。私だって若い頃はきっと、何気ない言葉で傷つけて、傷つけられて⸺若いってそういうことなのよ。」

でも、と言う雛子を遮り綾子は続ける。

「雛子さん、あなたはそれだけピアノを愛してるのよね。その情熱、どうか決して忘れないで。手が届こうと届かまいと、どうか追いかけることをやめないで。きっとあの人もそれを望んでいると思うから。」

その言葉に雛子は頷くと、「レッスン、頑張ってきます」と言って再び頭を下げ、去っていった。

それを見届けると綾子は再び607号室へ戻っていった。


「隆弘。雛子さんが来たわ。レッスン頑張るって。国立、受かるといいわね…」点滴の繋がれた手を握る。その指先がぴく、と動いた気がして綾子は隆弘の顔を見つめる。

隆弘は相変わらず安らかに眠っている。

「ねぇ、隆弘。隆弘が空色に塗ってくれたあの椅子。私ね、今塗り直してるの。何色だと思う?あなたの好きな出汁巻きの色よ。でもあなたみたいにうまく塗れなくて。帰ったら手伝ってほしいわ」

「ねぇ、隆弘。私ね、夜中にフラフラと彷徨うことがなくなったの。最初は疲れのせいかと思ったけど…あれからもう1週間だもの、間違いないわ。きっと治ったのよ。もうあなたに心配かけなくて済むわ。」

「ねぇ、隆弘⸺」そこまで言うと綾子の目から大粒の涙が溢れだした。

「何も、喋らないのね。微笑みかけてくれないのね。髪を撫でてくれないのね…隆弘…。」涙がポタポタと清潔なシーツに吸われてゆく。

「愛してる…愛してるわ…あなたがどんな姿でも…ずっと…」そう言ってそっと綾子は隆弘に口づけた。

間もなく面会の30分が過ぎる。

「また、来るわね」涙を拭い椅子から立ち上がったその時だった。


「あ…や……こ……」振り絞るような掠れた声。

反射的に振り返り隆弘の顔を見る。

薄っすらと開いた目。震えながら伸ばされた手。

「綾子…。」

綾子は手に持った荷物をドサリ、と落とすと隆弘に駆け寄る。

「隆弘…!隆弘!!隆弘…!!目が覚めたのね!?」

さっき拭った瞳からまたボロボロと涙が溢れだす。

「綾子…済まない…俺は…」

たどたどしく喋る隆弘を遮り綾子はただその頭を抱きしめて、額に、瞼に、頬に、そして唇に口づける。

「何も言わないでいい…いいのよ…」


面会時間終了を告げに来た看護師はその光景を目の当たりにすると、「だれか、先生を!!」と大慌てでナースステーションへと走り去って行った。



柊は自室で一人、生ぬるいコーラを飲みながら先程届いた郵便物を眺めていた。

差出人は長谷川。丁寧に糊付けされた封書を破ると中から出てきたのは自分が出した退職届。

それを開くと赤ペンで添削の跡があり、不受理の大きなスタンプと走り書きがあった。

「君は論文のみならず退職届までなってないな。休暇が明けたら出勤するように」


柊はそれを大切そうに抽斗にしまうと

「先生⸺ありがとうございます」と深々と頭を下げた。



11月中旬。

すっかりと冷え込みが厳しくなった頃、隆弘は退院した。

ロビーまで降りてきたところを綾子が出迎える。

「帰りましょう」と綾子が言うと隆弘は微笑みながら「うん」と短く返し、綾子の肩を抱いて病院を後にする。

タクシーに揺られる間他愛もない会話をして、家に着く。

「色々作ったのよ。あなたの好きな出汁巻きもあるし、それから鶏ハムも。それと…」と綾子が冷蔵庫からあれこれ取り出すのを隆弘は眺めていたが、ふと立ち上がると綾子の前まで歩み寄る。


「綾子」と呼びかけると綾子は動きを止めて、

「なあに?」と返す。

「俺は…君に…取り返しのつかないことをした…。俺の両親が…その…君の両親を…。隣にいる資格はないと…俺はずっとそう思って…」

と口ごもる隆弘の手を取って、綾子はこう告げた。


「贖罪も、庇護も、もう何もいらない。ただ…ただ私をこの先も、ずっと愛し続けてくれると誓いますか?」

真っ直ぐな眼差し。

隆弘は何か言い淀んだが、やがて決心したように、真っ直ぐに綾子の目を見つめてからそっと抱き寄せてこう返した。

「誓う。二度と離さない。君のことを一生かけて愛し抜く。」

そして二人目が合うと、クスクスと笑って軽くキスを交わした。



監獄の鍵は解き放たれた。

いや、或いは此処から先が二人の監獄なのかも知れなくても。

それでも。

揺るぎないものがたった一つ築き上げられたのは確かだった。





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