Side story⸺3つの希望⸺
G県の小さな産院。
洋平はウロウロと廊下を行ったり来たりしている。
真っ赤なライトに照らされるは【分娩中】の文字。
叶恵が破水してからもう、3時間以上。
「ああ、主よ…」と洋平が呟いたその時だった。
「ホギャアアア!ホギャアアア! 」
440ヘルツのそれは、新しい命の誕生を意味していた。
分娩室のドアが開く。
「お父さん、どうぞ。お母さんはよく頑張りましたよ。」
促されるままに一歩ずつ分娩室へ。
そこには汗だくの叶恵が、元気に産声を上げる赤子を抱いて微笑んでいた。
「女の子、ですって。」
その言葉に洋平の目頭が熱くなる。
が、次の瞬間。
バチン!!
と分娩室に響く音。
洋平が思い切り自分の両頬を叩く音。
唖然としているドクターや看護師たちを他所に、洋平はニッカリと笑ってこう言った。
「父ちゃんは、どっかり構えて泣かないもんだ。」
季節は巡ってまた、夏。
午前7時過ぎ。綾子と隆弘は小さな庭に植えた檸檬の木にしっかりと、己の命の糸を巻きつけた蛹を見ていた。
蛹はもう、体の色が透けて見える。
綾子は手を組みながら祈るようにそれを見つめている。
隆弘もまた、そんな綾子の肩に手を置いて固唾を飲んで見守っている。
ピクリ。
蛹が動く。
みるみるうちに頭部のそれが割れて⸺まず、2つに分かれた口吻が出てくる。それがシュルシュルと伸縮を繰り返しながら次に目。そして前脚。そして思い切ったようにズルリ、とまだ濡れて縮んだ翅が出てきた。
「出てきたわ!ねえ隆弘、出てきたわ!」
綾子がそう興奮気味に叫ぶと隆弘は微笑みながら、
「興奮し過ぎだ。ほら。」とスポーツドリンクを差し出す。
蝶の黒々とした翅に体液が行き渡る。2つに分かれていた口吻はやがて一つへ。
ゆっくり、ゆっくりと翅を開いては閉じるたびに腹の膨らみがなくなってゆく。
「きれいね…」と綾子が呟くと隆弘は綾子の髪をなでながら、
「さ、これ以上は身体に障るよ。この暑さだ。家に入ろう」と促した。
綾子が促されるままにお腹をさすりながら隆弘についていく。
ぽこり、と張ったお腹。
そこには新しい命が宿っていることを明確に示していた。時々中で命が躍る。ぽこぽこと中から蹴られるたびにくすぐったいような、愛おしいような⸺そんな感覚になる。
「奏は、元気ね」微笑みながら綾子はお腹をさする。
奏。それは二人で決めた名前。
男の子でも女の子いいようにと決めた、大切な名前。
昼過ぎ。
「さて、と。今日は何がいいかな?」
隆弘はリビングの隅に置かれた小さなピアノ⸺中古だがしっかりとメンテナンスの行き届いたそれを見る。
「パパの好きな曲なら何でもいいですよねー?奏ちゃん?」と綾子がお腹の中の我が子に語りかける。
と、その時。綾子のスマートフォンが通知を告げる。
「隆弘!!」思わず綾子が叫びをあげる。
メッセージアプリのその画面には、赤子を抱いて微笑む叶恵と、満面の笑みでピースサインをする洋平の写真が添付されていた。
メッセージには
「生まれました。2853gの女の子です。名前はもう決めてます。綾音です。綾子お姉ちゃん、名前をいただきました。」と記されていた。
「生まれてきた…あの子の子供が…」綾子の目に涙が滲む。
隆弘は綾子をそっと抱きしめると、
「そうか…あの子が…」と呟き、そして綾子の腹に軽くキスをして「俺達も負けてられないな」と微笑んだ。
快晴の夏空。
すっかりと羽を伸ばしたクロアゲハがハタハタと天を目指して飛んでゆく。
この世に生まれ出でた命と、これからこの世に舞い降りる命。
3つの命はモイライに祝福されるように輝いていた。
サイドストーリーです。
私は虫屋という性分から作中にもいくつもの虫を登場させましたが、今朝ウスタビガの初齢幼虫が卵から孵化していました。
それにインスピレーションを得て書いた物語です。
蛇足、なのかもしれません。
それでも。
命はいつだって輝いている、それを伝えたくて。
今度こそ、ほんとうに。
また、会う時まで。
The onion songを聴きながら⸺
杜 妃湖




