時間泥棒⸺ミヒャエル・エンデ『モモ』より⸺
エレベーターがポンと軽快な音を立てて止まる
「6階です」
綾子はハッと顔をあげて駆け出そうとして、危うくエレベーター待ちの人にぶつかりそうになる。
「…ッすみません!!」
(落ち着かなければ…)
すう、と息を吸い、はあ、と吐き出す。607号室はもう目の前だった。
個室。
震える手でノックを2回。
「どうぞ」と誰かの声。隆弘のものではない。
恐る恐るドアレバーに手をかけ、そっと引くとそこにはかっちりと⸺そして高級そうなスーツに身を固めた年配の男性と、高校生くらいだろうか。制服に身を包んだ少女がいた。
「早乙女綾子さん、だね?」年配の紳士が尋ねる。
「はい、そうです…えっと…」と綾子が戸惑っていると掠れた声が耳に入る。
「綾子…?」
隆弘が呼んでいる。
綾子は慎重にベッドに近寄ると、それを覆うカーテンをゆっくりと開けた。
そこには、頭を包帯でぐるぐる巻きにされ、点滴に繋がれ、そして病院の寝間着を身に着けた隆弘がいつものように微笑んでいた。
「隆弘…ッ」
綾子は老紳士と少女の存在を忘れ縋りつく。
(生きて、生きていた⸺)
見る間に大粒の涙が溢れだす。
隆弘はそんな綾子の髪にそっと触れ、
「心配かけた。ごめん」そう短く言うと老紳士と少女にも「ご心配をおかけしました。会長。雛子お嬢様も。私は大丈夫です。妻も来てくれましたし⸺お忙しい中お手を煩わせて申し訳ございませんでした。」と頭を下げた。
会長?
ハッと綾子が振り向く。
老紳士はゴソゴソと名刺を取り出し綾子に手渡す。両手でそれを受け取って刻まれた文字を頭の中で読み上げる。
(山吹ホールディングス 会長…山吹藤次…)
恐る恐る顔をあげてその顔を見る。
威厳。そして守るべきものを守り育むべきものを育んできた圧倒的な経験と自信。
顔に刻まれた皺の一つ一つがそれを物語っている。
ふと、隣の少女と目が合う⸺その瞬間、少女はフイ、と目を逸らした。
(一体どういう事なの…?)
思考を巡らせど答えは降りてこない。
老紳士⸺山吹が口を開く。
「はじめまして、早乙女くんのご夫人。名刺を見ていただいてわかると思うが、私は早乙女くんの勤務する会社で会長をやらせてもらっている。この度はごく私的な頼みを早乙女くんにお願いしてしまってね。その結果が、これだ。誠に申し訳なく思う。」
深々と頭を下げられる。
「いいえ」
と後ろから声が返ってくる。
隆弘が真面目な顔で答える。
「あれは私のミスです。会長のご依頼とはなんら関係はありません。久し振りにピアノに触れて高揚してしまい、転んだだけです。雛子お嬢様にももちろん責任はありません。全て私のミスです。申し訳ありませんでした。」と深々と頭を下げる。
「ああ、君、頭を打っているんだ、そんなに頭を動かしてはいけないよ。とりあえず横になりなさい。」と山吹はそれを制して隆弘に歩み寄る。
「畏れ多いことです。自分で出来ます。妻も来ましたし、どうぞ会長はお戻りください。これ以上貴重な時間を私なぞに割かないでください。私は大丈夫ですから。」と隆弘が言うと
「そうか」と短く答えたあとで「ご夫人といるほうが気が休まるだろう。さ、雛子。帰ろう。」と病室をあとにしようとしたときだった。
「お爺様。」
先程までじっと黙りこくっていた少女が口を開いた。
「私、早乙女さんの奥様に謝りたいわ。でもお爺様に聞かれるのは少し恥ずかしいの。だから⸺」
と山吹をじっと見つめる。
山吹はゆっくり頷くと、「雛子がそうしたいならそうしなさい。先に車に戻っているよ」と病室をあとにした。
「早乙女、綾子さん、でしたよね。そこのデイルームにちょっと来ていただきたいの。早乙女さん、奥様をお借りしても?」
雛子が隆弘に視線をやると隆弘は「雛子お嬢様のお心のままに」とだけ答えた。
デイルーム。西日が眩しくてブラインドが下げられているそのスペースに人はまばらだ。
「綾子さん、でいいかしら」
雛子は少し尖った口調で尋ねる。
綾子は少し戸惑いながら「ええ」と答える。
少しの間。
雛子は堰を切ったようにまくし立てた。
「早乙女さんの、営業一課の人たちから聞いたの。早乙女さん、綾子さんのために木曜日にお休みを入れているのでしょう?それがどれだけ上を目指すことの障害になっているのかご自覚はあるのかしら?それに⸺私、今日早乙女さんのラ・カンパネラを聴いたわ。早乙女さん、すごく楽しそうに、情熱を込めて弾いてくださったの。はっきり言うわ。国立音楽大学をお辞めになったのは綾子さん、あなたの所為なんでしょう?」
ハアハアと息を切らしてそこまでまくし立てると雛子はくるりと向き直りスマートフォンで「お爺様、終わったわ。迎えをよこしてくださる?」と山吹に電話をしてから再度綾子に向き直ってこう言い放った。
「泥棒。時間泥棒よあなたは。早乙女さんから音楽の時間を奪った泥棒よ!」
そして踵を返し、エレベーターの方へ早足で歩いていった。
綾子は何も言えずただ、そこに立ち尽くしていた。




