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夢の監獄  作者: 杜 妃湖
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夜想曲

隆弘はベッドの上でぼんやりと外を眺めていた。

(やっちまったな…とんだ大失態だ…)

狸腹⸺部長は「我が営業一課のエースを…どうか宜しくお願いします、会長」なんて涙を浮かべながら心配していたと先刻山吹から聞いた。

(⸺心にもないことは言われたくない…あの狸めは自分の立身出世しか考えてない。安っぽい芝居しやがって。)


と、先程雛子嬢と共に部屋を出ていった綾子がなかなか戻ってこないことに気づく。

(綾子…?)

隆弘は手元のナースコールを押した。


綾子はただ、デイルームに立ち尽くしていた。

時間泥棒。

確かにそうなのかも知れない。

隆弘が音楽の道を閉ざしたのは二十歳のときだった。理由は「経済的に苦しくてこれ以上は無理だから」と言っていたが。

綾子はわかっていた。

ピアノに対してどこまでもストイックな隆弘がそう簡単に諦めるはずなどないことを。だからこそ道を閉ざした今、ピアノに過剰反応し自ら拒絶していることを。

(私⸺私は…どこまでも愚かで…なんの役にも立てずに…)

雛子が言ったことを100%真に受けたわけではない。

以前の自分がそうであったように、若さ故の情熱とは時に残酷なまでに他者を傷つける。


そうわかっていても突きつけられた言葉は重く、そして鋭く綾子の心に突き刺さっていた。



「早乙女さん」

声をかけられる。振り向くと看護師が立っていた。

「こんなところにいたのね。ご主人が呼んでるわ。」

隆弘が自分を呼んでいる。

(必要とされている、少なくとも)

綾子は急いで607号室に戻った。


「ごめんなさい、遅くなったわ。怪我人をほっぽらかして…奥さん失格ね」つとめて明るく接する。

が、どうしてもぎこちなさが隠せない。

隆弘は「おいで」と一言言うと、備え付けの簡素な椅子に視線を送る。促されるままに座ると「もっと近くに、おいで綾子」と隆弘が笑いかける。

椅子を持ち上げ、隆弘の枕元まで近寄る。

「綾子、髪を撫でさせてくれないか」

言われるがままに前かがみになり、隆弘に身を委ねる。

「安心するよ、綾子。やっぱりこうして君の髪を撫でるのが俺は好きなんだな」


その言葉に綾子の耳は紅潮して⸺たちまち涙が溢れ出す。ぽた、ぽたと布団に涙が滲んでゆく。

「どうした、綾子。何も心配はいらないよ。たしかに頭は打ったが、念の為の入院だから。4.5日で出てこれる。その間、君を一人にしてしまうのが不安なんだが…」

隆弘は綾子の背中をさする。

それが愛でも、束縛でも、管理でも、支配でも、所有欲でもなんでも構わない。ただただこの人を失いたくない。

ブラインドの降りた窓の外はもう薄暗くなっていた。


(面会時間の30分なんて、あっという間ね…)

病院からの帰路、綾子はぼんやりとタクシーの窓から外を眺めていた。すっかりと漆黒に染まった空に細い三日月。

(あの人が…隆弘がピアノを弾いたなんて…)

柊と初めて密会した日の翌日の夜を思い出す。

(ピザを頼んで…TVではストリートピアノの特集が流れてて…あのとき隆弘は即座にTVを消した…あれは完全な拒絶だった…なのに…)


タクシーから降りて家の鍵を開ける。

パンプスを脱いでソファに腰掛ける。

それだけの動作がとても重く、だるい。


(そういえばあれは…あのとき隆弘がこども園で弾いてくれた曲は…何だったっけ…確かショパンの…)

ゆったりと美しい旋律の曲。

綾子はノロノロとパソコンを立ち上げると動画サイトへアクセスし、検索欄にショパンと打ち込む。

ずらりと出てくる候補。

その中に探しものはあった。


ノクターンOP.9-2。

ピアニストに憧れていた少女に乞われて弾いた曲。

レベルとしては初級〜中級に相当するが、トリルを入れたり間合いをゆっくりと持たせることで聴く者を魅了する優しい曲なんだ、と隆弘が言っていたことを思い出す。

夢と希望に満ちて他愛もない話一つが尊かったあの頃。

あの頃にはもう戻れない。


綾子はパソコンの電源を落とすと、押し入れの奥に仕舞い込んだ柊との専用端末を取り出す。メッセージアプリを開きのろのろと文字を入力する。

「主人が入院しました。暫くは会えません。ごめんなさい」

そう打つと一瞬躊躇ったが⸺綾子は送信をタップした。そしてベッドに潜り込むと胎児のように丸くなって、そのまま眠りについた。

高く高く登った月が、秋の冷たい空気を優しく照らしていた。



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