とある道化師のカンパネラ 2
歴代会長の写真が並ぶ会長室。
この山吹ホールディングスは今の会長、山吹藤次氏で5代目になる。一部上場に押し上げたのもこの山吹藤次氏であった。
ピカピカに磨き上げられた机に床。
威厳の塊で武装されたような、重たい空間に不釣り合いな愛らしい⸺それも育ちの良さが滲み出た少女。
シルクのような黒髪をハーフアップにして、有名私立高校の制服に身を包んでいる。
山吹が口を開く。
「この子は私の孫でね。音楽の道に進みたいそうだ。」
音楽。そう聞いて隆弘にの脳裏に嫌な思い出がよぎる。
更に山吹は続ける。
「早乙女くん、私はね。優れた社員の経歴は必ずチェックしている。先日君の経歴を見た。国立音楽大学を中退後、就職活動をしてうちに入社しているね。大学在学中、いやもっと前からあらゆるコンクールの賞を総なめにしている。」
隆弘の鼓動が早くなる。
「雛子も国立音楽大学を目指していてね。実際にそこに到達出来た者の演奏を聴きたいそうだ。一つお願いできるかね。」
山吹がそう言うと、会長室の右奥のドアを秘書が開けて、こちらです、と隆弘を促す。
そこには1台のグランドピアノがあった。
隆弘はきわめて冷静に山吹に告げる。
「会長。僭越ながら私は一度ピアノを諦めました。挫折者です。そんな私に大切な雛子お嬢様の演奏の模範など⸺出来ようもございません。」
(嫌だ、嫌だ、弾きたくない⸺だって俺はあの時から…)
山吹は隆弘に歩み寄り、その手をとる。
「うん、やはりピアニストの手だ。」
スラリと伸びた指。鍵盤の端から端まで運指を繰り返さなければできない筋肉。そして切りそろえられた、爪。
山吹は隆弘の手に自分の手を重ねると「見たまえ」と一言。そしてひと呼吸おいて続ける。
「私もかつてはね、ピアニストを目指していたんだよ。先代の意向で会社を継がなくてはならなくなったがね。雛子には夢を諦めてほしくないんだ。」
隆弘よりも一回り大きいその手はやはりスラリと伸びた指に切りそろえられた爪。
ピアノをやっていた者は、無意識に爪を短く切りそろえる。無意識の習慣が、まさかこんなことになるとは。
雛子はつい、と少し前に出ると再びペコリ、と頭を下げる。
「早乙女さん、お願いします。私どうしても⸺国立に行きたいの。お願いします。」
もうここですべき行動は一つしかない。
隆弘は腹を括った。
スーツの上を脱ぎ、軽くシャツを袖まくりすると「何をお聴きになりたいですか?雛子お嬢様。」と恭しく尋ねる。
「何でも、お出来になるの?」雛子が尋ねる。
「一通りは⸺ただ、12年のブランクがあります。ご期待には添えないかも知れません。それでも宜しければ。」
雛子の顔がパアッと明るくなり、「それなら」とやや興奮気味に続ける。「ラ・カンパネラを。今の課題曲なの」
(嘘だろ…)
隆弘は狼狽えながらもそれを顔には出さない。
ラ・カンパネラ。フランツ・リストの作曲した超難易度⸺超絶技巧曲として知られている。
雛子は続ける。「先生が…これが弾けなければ国立は難しいって…でも諦めたくないんです。運指を見るだけでも勉強になると思うの、だから…」懇願するように隆弘を見つめる。
その姿がかつて綾子がこども園で演奏してくれないか、と持ちかけてきたときの姿と重なる。
(やるしかない…)
隆弘は構えると大きく息を吸って、そして吐いた。
低音3つ、高音3つ。そしてまた低音3つ、高音3つ。
まるで雫が滴るように切なげに始まるその曲は次第に美しく流れる小川のように、そして次第に激流へと化していく。
雛子はほうっと頬を赤らめ、隆弘の運指に見入る。
時間にして5分と少し。気づけば隆弘は夢中になって弾いていた。何かに魅入られたかのように⸺或いは取り憑かれたかのようにただただ鍵盤を弾くその指は、12年というブランクを全く感じさせない。
曲が終わり、隆弘は肩を上下させながら少し荒い息遣いで「ミスタッチがありました。申し訳ありません。」雛子に頭を下げた。
「素晴らしいわ!これが国立の門をくぐることを許された人の演奏なのね!!」雛子は惜しみない拍手を送る。
山吹もまた雛子と同じように拍手を送る。
隆弘はゆっくりと立ち上がると、山吹と雛子に「畏れ入ります。業務がまだ残っておりますので、この辺りで失礼させていただいてもよろしいでしょうか」と恭しく頭を下げた。
雛子は「ごめんなさい、そうですよね。私のわがままに付き合わせて…早乙女さん、ありがとうございました!
それに、お爺様も。」とペコリと頭を下げた。
会長室から解放された隆弘は、フラフラと営業一課の自分の席まで戻る。
狸腹が興奮気味に、「会長からお呼びがかかったって!? 一体何の御用だったんだい?」と尋ねる。
隆弘はそんな上司を見やると誰にも聞こえない声で「五月蝿えよ…」と呟いてから、
「部長、大したことでは⸺」
ゴッ、という鈍い音。それからドサリ、と言う重たい音がオフィスに響く。
「きゃああああ!!早乙女さん!?」
「おい、救急車だ。頭を打ったぞ!早く」
(どいつもこいつもやかましい⸺クソが…)
隆弘の意識は遠のいていった。




