とある道化師のカンパネラ
「綾子」
ゆさゆさと肩を揺さぶられる感触。
「綾子。風邪をひくぞ。」
その声にハッとして綾子は飛び起きた。
心配そうに覗き込む顔。隆弘が帰宅していた。
「どうしたんだ、ソファなんかで…」
そう訪ねる隆弘に綾子は何事もなかったかのように返す。
「ごめんなさい、風が強いせいかしら、また頭が痛くて…鎮痛剤を飲んだの。そのまま寝ちゃったみたいね…。」
咄嗟に口をついて出た、嘘。この人には全て分かっているかもしれないのに⸺。
時計を見ると19時半を回っていた。
「ごめんなさい、お夕飯できてるの。温めてこなきゃ」
と言う綾子を隆弘は優しく制し、額に手を当てる。
「熱はなさそうだな。いいからそのまま座ってなさい。何か羽織るものを持ってくるから。飯も出来てるんなら温めるだけだろ?電子レンジくらいなら俺だって使えるよ。」と隆弘はクローゼットからガウンを取り出し、「ほら」と綾子に差し出す。
「本当にごめんなさい…鎮痛剤を飲んだのが18時少し前だからそんなに時間は経ってないと思うのだけど…」
ガウンに袖を通しながら綾子は俯く。
正確には帰宅してすべての証拠隠滅をしたのが18時少し前、なのだが。
隆弘が近寄って綾子の頬に手を置く。
「もう大分涼しくなった。油断は禁物だよ。」
そしてそのまま綾子の喉元に手を滑らせてゆく。
ピクン、と体が反応する。
鼓動が自然と早くなる。
(何をするつもりなの⸺)
綾子が体を硬くして身構えたその時、予想もしない言葉が降ってきた。
「ごめん。こりゃやり過ぎだな。」
隆弘は自分が綾子の細い首につけたキスマークを軽くこする。
「青くなっちまってる。ごめん。髪を切ってからの君がなんだかいつもより可愛くて⸺でもこりゃやり過ぎだ。済まない」
そう言うとキッチンに向かい、手際よく綾子の準備した夕餉を温め始めた。
綾子は隆弘に気取られぬようホッと小さく息をつき、自らも首筋を触る。
愛の印。否、それが所有物の刻印なのだとしたら⸺
(茶番ね…)
この人をこんなにも愛している、それは確かなことなのに。綾子は隆弘の用意したガウンの心地よさを感じながら罪悪感と引き戻せない絶望に飲まれていった。
翌日。日曜日。
案の定疲れが出たのであろう。綾子はベッドで目を覚ました。
隆弘の腕の中に抱かれ、胸がチクチクと痛む。
(本当は、何も知らない方が幸せなんじゃないかしら⸺)回らぬ頭で考える。
でもすでに歯車は回りだしてしまったのだ。
(止めることはできない。すべての罪はわたしが被る、だから…)
この人がこれ以上傷つきませんように、そう祈ることしかできなかった。
明けて、月曜日。綾子はまたベッドで目を覚ました。
日曜日は、それはそれは滑稽劇のように過ぎていった。良き妻と献身的な夫の、何気ないやりとり。
すべてが空転するような感覚。
それに疲れきったのであろう。
隆弘を送り出すと綾子は深い深い溜め息をついた。
オフィスに着いた隆弘は上司に呼び止められた。直属の狸腹ではない。専務だ。
「早乙女くん、ちょっといいかな」
「はい、私に何か御用でしょうか?」隆弘はピシッと狸腹よりも遥かに地位の高い上司に、忠実な部下の顔をして向き直る。
専務はきわめて冷静に隆弘に告げる。「会長がお呼びだ。君に話があるらしい。」
(会長が…?俺に…?)
何かしでかしたか。否、なんの心当たりもない。
「そう構えなくていい、なんでも君に頼みがあるそうだよ。ごく私的なね。」専務はぽん、と隆弘の肩を叩くと会長が待つ部屋へと彼を導いていく。
皆目検討もつかぬまま隆弘は「会長室」と金のプレートが貼られた部屋に通される。
「お呼びと聞いて参りました。営業一課主任、早乙女です。」恭しく頭を下げる。
「ああ、そんなに堅くならなくていいよ。顔をあげて」
そう言われてゆっくりと顔を上げるとそこには入社式以来久しく見ていなかったこの会社の会長、山吹が革張りのチェアに腰掛けていた。その傍らに、15.6であろう少女。
「雛子、ご挨拶なさい」と促されるとその少女は深々と頭を下げて隆弘に挨拶をする。
「早乙女さん、はじめまして。山吹雛子と申します。」
その頬はほんのりと赤く染まっていた。




