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乞食からはじめる、死に戻り甲賀伝  作者: 怒破筋
第二章 天文法華の乱ーー燃えゆく京
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第百六話 炎月の橋に立つ者ーー経心最後の刻

天文五年、八月四日――夏の炎が空を焦がす刻であった。

洛中を呑み込んだ天文法華の乱はいまだ鎮まらず、二十一の寺院から追われた法華宗の一団は、西方へ退くため淀大橋をひた走っていた。

川風は土埃と戦火の匂いを巻き込み、月の光が橋板に青白く細い影を落とす。


「ここは拙僧に任せて堺へ!」

「法華の拳骨殿! 恩に着ます! どうかお命を大切に!」


袈裟を脱ぎ、仲間を押しやる声が飛び交う。

その最前で橋へ踏み込んだのは、十三歳の小坊主――経心きょうしん

幼さの残る顔に似つかわしくない、冷えた覚悟が宿っていた。


延暦寺の僧兵が列をなして迫る。鉄の匂い、足音の震え。

しかし経心は迷わず前へ進んだ。不殺の誓いを胸に、刃を石で潰した薙刀を振るう。


風が一閃する。

僧兵が呻き声とともに倒れる。だが命は奪わない。

血刃を拒んだ薙刀は、ただ打撃だけを与え、敵を無力化していく。


(一人も死なせてはならぬ)

それは、師であり友でもある男・梵寸が課した厳命であった。


「この小僧、倒れんぞ! 何者だ!」

驚愕の声が上がる。


経心の呼吸は早く、腹巻武者の袈裟懸けを受けた腹から赤い血が溢れていた。

それでも恐怖は一度も胸に差さなかった。


――師匠の梵寸。

――親友の小吉。

――そして……華。


胸の奥に、懐かしい気配がふっと灯る。


◇◇◇


華が寺に来た日のこと。

梵寸の苛烈な修行に耐えられず、華は腕に紫の痣を作って泣いていた。

「痛くなんて……ないよ」と強がったが、震える拳は隠せなかった。


力になりたくて、経心はこっそり持ち出した布切れを井戸の水で冷やし、そっと差し出した。


布を押し当てた華は、痛みに眉を寄せながらも、小さく笑った。


「経心……ありがと。あんたがいると……なんかね、ちょっと頑張れるの」


その声は、どの教えよりも温かかった。


別の日、東山の森の鍛錬で。

日差しの届かぬ木陰で、華は経心の袈裟の端をつまみ、小声で言った。


「……ほんとはね、怖いの。痛いのも、怒られるのも、負けるのも。

 でも……負けたくないの」


涙を袖で拭い、続ける。


「経心には、言ってもいい気がしたから」


その時、経心は悟った。

華の強さの半分は覚悟ではなく、孤独だったのだと。


最後に会った朝。

空が白む頃、華は心配そうに経心を見つめていた。


「にいにがね……なんか大きなことが起こるって言うの。法華宗の人たちが危ないって」

不安は隠せていなかった。


「大丈夫。師匠の鍛錬は厳しい。死線も何度も越えた。そう簡単には死なないよ」

経心は安心させようと微笑んだ。


すると華は、ぎゅっと布袋を握りしめながら言った。


「……あのね、経心がくれた布……すごく冷たくて……でも、それより温かかったの。

 だから……その温かさ、なくしたくないの。一緒に……長浜に行こうよ……?」


普段は大人しい華が、珍しく積極的な行動を見せていた。華は胸騒ぎがしていたのだった。


経心は優しく首を振った。

「拙僧は大丈夫。それより……長浜まで、気をつけて。華も小吉も強いから、心配していない」


「……うん。じゃあ……絶対にまた会おうね」


そう言って華は歩き去り、経心に見送られた姿が――それが最後になった。


◇◇◇


(華……長浜へ逃げられただろうか)


延暦寺の僧兵が橋の中央まで迫る。

経心は最後の法華宗の一団が橋の外へ逃れたのを見届けると、薙刀の柄を橋に突き立て、仁王立ちになった。


「拙僧の命に替えても、ここは通さぬ!」


腹は深く裂けていた。

押さえた手の隙間から温かい血が絶えずあふれる。淀大橋は経心の血で赤く染まっていた。

世界の輪郭が揺れ始める。


「あれほどの血を流しておるのに、なぜ倒れんのだ……!」

「義賢殿を呼べ!」


怯えた声が飛ぶ。

奇跡を目の当たりにした者たちの沈黙が橋を満たす。


(梵寸に……新しい型を見せたかったな。

 小吉と、どっちが上手く出来るか勝負するって……言ってたのに)


胸の奥が、ふっと温かくなる。

それは――あの日、華が見せた小さな笑顔の温もりだった。


(短い人生だった。でも……良い友に恵まれた。ただ一つ……もう一度、大好きな華の、あの笑顔を見たかっ……)


視界に滲んだ月の光が、ゆっくりと遠ざかる。


経心は、最後に小さく息を吸い――

そのまま吐かずに、静かに止まった。


胸はもう上下しない。

瞳の光も、橋を照らす月に飲まれていった。

経心の心臓は静かに停止した。


◇◇◇


堺へ向かっていた梵寸は、風の乱れに気づいた。

胸騒ぎがした。七十九年の経験が告げる――これは悪い兆だ。


梵寸は一気に踵を返し、淀大橋へ駆け戻った。


橋は異様な静けさに包まれていた。

延暦寺の軍勢は追撃をやめ、橋中央に視線を集めている。

その光景は、戦場というより祈りの場だった。


梵寸が駆け寄ると――


薙刀を橋に突き立てたまま、血に染まりながらも立ち尽くす、小さな僧の姿。


両手を合わせ、拝する僧兵たち。


その中央にいたのは、経心だった。

だが、その胸はもう動いていない。


「……まさか」


梵寸は震える指で経心の肩に触れた。

少年の体はすでに冷えていた。

顔は、苦痛の影もなく、穏やかだった。


「その僧を……知っておるのか?」

延暦寺の僧兵が問う。


梵寸は喉を震わせた。


「この者は……経心。

 師の教えを守り……最後まで、不殺を貫いた……心の優しい僧よ」


延暦寺の高僧は静かに目を閉じた。


「経心とやら……天晴あっぱれである。我らは英雄に免じて撤退することにする」


延暦寺の僧兵たちは川霧に紛れ、静かに姿を消した。


梵寸は経心を抱え、橋の端へ運ぶ。

「……こんなにも……小さかったのか……」


そっと横たえ、瞼を閉じた。

戦場には似合わぬほど優しい微笑が、そこにあった。


「経心……また逝ってしまったか……満足して逝けたのか……ううっ」


七十九の歳月を背負った甲賀衆惣領の声が、震えた。


「わしの目から……まだ涙が出るとは……。

 死に戻りになって……忘れたはずのものを……」


梵寸の目からはとめどなく涙があふれていた。

忍びとして仲間を失うことなど日常だった。涙はとうに枯れたと思っていた。

だが経心だけは違った。


「経心は……わしの忘れた優しさそのもの……。

 生きていてほしかった……どうしても……おおおっ……」


嗚咽が止まらなかった。


「……いつ死んでもおかしくない弱き乞食であったわしに、何も求めずに武を教えてくれた。

 ただ“強くあれ”と背を押してくれた。……遅れて、すまぬ……くっ」


額を地につけ、梵寸は何度も謝り続けた。


「経心……おぬしは、最後まで……わしの誇りじゃ」


そして、亡骸に向かって静かに誓う。


「……わしは歴史を変えぬ。

 変えれば徳川の世も、民の営みも軋むやもしれぬ。

 されど――民の命だけは守る。

 経心のような“良き者”が生きられる世を、必ず作る。

 それが……不動明王との約束じゃ」


川霧が静かに揺れ、真夜中の月が橋を淡く銀色に染める。

その光の中で、梵寸の誓いは静かに染みわたり、

新たな戦国の影へと溶けていった。


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