第百七話 風葬の丘、梵寸は約を結ぶ
天文五年八月四日。
乱の余熱がまだ都に燻る夕刻、梵寸は淀大橋を越えていた。
焼け落ちた家屋の匂いが、湿った風に混じって鼻を刺す。川面には煤が浮き、渡る者の足音だけがやけに大きく響いていた。その背には、一人の少年の亡骸があった。
経心。名を呼ばれることのなくなった、友の重み。
橋を渡り切ると、道は緩やかに丘へと続く。納所の丘。三川が静かに合流する高台である。
吹き抜ける風は澄み、血と煙の気配を洗い流すようだった。遠く、宇治川が夕陽を映し、金色の水鏡を広げている。
――美しい。
戦があったことなど、嘘のように。
「ここならば、人の行き来も多い」
梵寸は静かに言った。
「経心も、寂しくはなかろう」
丘の頂で土を掘る。柔らかな土が、抵抗なく崩れた。亡骸を横たえ、布を整え、そっと土を戻す。
自然石を一つ立て、腰の刀で文字を刻んだ。
『我が友 経心の墓』
低く題目を唱え、手を合わせる。
風が墓標を撫で、草を揺らし、丘全体を包み込んだ。それはまるで、魂を空へ押し上げるかのようであった。
「経心よ」
梵寸は語りかける。
「魂となり、わしにしがみつけ。わしのやること、なすこと……すべて見ておれ」
そう言って立ち上がる。振り返らず、鴨川の自宅へと足を向けた。
◇◇◇
家の前に、一人の男が立っていた。
中年。背は高く、無駄な動きがない。
甲賀衆、赤尾家惣領――赤尾玄蕃。
「無音……いや、梵寸よ……」
呼び止める声に、梵寸は足を止めた。玄蕃は黙したまま、十二歳の少年を見据えている。
「なぜ、わしに行動のすべてを見せた」
玄蕃が問う。
「何を考えておる」
梵寸は答えない。ただ、その視線を受け止めていた。
「貴殿の動きのおかげで、京の焼失はかなり抑えられた」
玄蕃は続ける。
「我が殿、六角軍が加わっておれば、四、五万の僧兵が都で暴れ、応仁の乱より酷い有様になっていたであろう」
沈黙。
梵寸は、ただ見ている。
「わしの目にはな」
玄蕃の声が低くなる。
「梵寸殿が、民を守るために動いたとしか思えなかった。……そうなのか?」
梵寸は、短く頷いた。
「ならば、なぜ見せた」
玄蕃は息を吐く。
「何度も考えた。自問した。そして一つの結論に至った」
一拍。
「甲賀衆の情報網を使い、何かを成そうとしているのではないか。……どうであろう?」
梵寸は、真正面から玄蕃を見つめ、再び頷いた。
その瞳は十二歳のそれでありながら、七十九年を生き抜いた老忍の静けさを宿していた。
「……うむ」
玄蕃は小さく唸る。
「ならば、赤尾家に養子として迎えたい。華と小吉も含めてだ」
玄蕃は事情を語る。慢性的な人手不足。十月に予定される養子の集め。
優秀な人材を逃す理由はなかった。
――読まれている。
だが、それでいい。
甲賀は、いずれ滅びる。
だからこそ、里を存続させねばならぬ。徳川家康との約束。死に戻る前に交わした、あの誓い。
そのために、梵寸はここにいる。
「世話になる」
梵寸は素直に頭を下げた。
玄蕃は安堵し、すぐに顔を引き締める。
「ただ、一つ問題がある」
「無音じゃろう」
梵寸は先んじて言う。
玄蕃は頷く。
「すでに里は総力を挙げ、無音殿を探しておる。正体を暴き、殺すためにな」
訓練での異変。境地の露見。
玄蕃の額に皺が寄る。
「無論じゃ」
梵寸は笑う。
「格下に力を隠すは容易い。だが小吉は十一にして真境。華は十で絶境じゃ」
「……そこまでか」
玄蕃は両手を広げる。
「ありえん」
「ほっほっ。死ぬか生きるかを何度も越えさせたら、化け物になってしもうた」
「まったく……」
玄蕃は苦笑し、やがて膝をついた。
「梵寸殿。赤尾家へようこそ。歓迎しよう」
梵寸は、珍しく微笑んだ。
経心を失った痛みを、胸の奥へと静かに沈めながら。
◇◇◇
天文法華の乱は、都そのものを戦場へと変えた争いであった。
信仰の名を掲げた武装集団が町へとなだれ込み、寺社の垣根は容易く破られ、刃は路地にまで及んだ。狭い通りでは逃げ場を失った者たちが折り重なり、叫びと鉄の音が反響する。やがて放たれた火は、紙と木で築かれた町屋を一気に呑み込み、夜を昼のように赤く染め上げた。
炎は身分を選ばぬ。僧も町人も、女子供も区別なく、煙に咽び、倒れた。
正確な死者数は残されていない。ただ史料には「夥しき死骸」「道に屍積もる」と記されるのみである。僧兵同士の討死に加え、避難の途上で命を落とした者も多く、犠牲は少なく見積もっても数百、実際には千を超えたとも言われている。
山科本願寺は破壊され、都の町屋や商家も広く焼失した。商いは止まり、人々は家を捨て、京を離れた。
この乱が残した最大の傷は、仏の名のもとに行われた殺戮であった。救いを信じていたはずの言葉が、人の命を奪う理由へと変わったのである。
しかし――すべてが無秩序に終わったわけではない。
梵寸を軸に、吉岡派、愛洲門派らが手を取り合い、要所を抑え、民の退路を確保したことで、都全域が灰となる事態は辛うじて免れた。
剣と忍び、流派を超えた協力により、被害は最小限に食い止められたのであった。
◇◇◇
「では十月、近江の妙婆のもとへ迎えに行く」
そう言い残し、玄蕃は去った。
その背を見送る梵寸の耳に、ふと声が届く。
「……梵寸……」
振り返る。
墓の方角。しかし、誰もいない。
「……経心」
梵寸は低く呟く。
「わしの生き様、見ておれ」
風が吹く。
丘を越え、川を渡り、未来へと。
梵寸は、歩き出した。




