第百五話 月影の下、灯の途絶える刻
八月四日――真夜中。
京の東門に沈む月光が、赤黒い地を照らしていた。焼けた木の匂いが風に混ざり、静まるはずの夜に、血の温度だけがじわりと残っている。
その中心で、吉岡直元が倒れていた。
梵寸は風をまとったまま立ち尽くし、ただ黙ってその光景を受けとめていた。
最初に声を上げたのは、泰清だった。
「直元様ぁぁ――っ!」
地面を掻きむしるように駆け寄り、老いた腕で亡骸を抱き締める。指はわなないていた。涙が頬を伝うのに、声だけが、むしろ荒れた風のように震えていた。
「うそ……うそじゃ……!
こんな、こんな虚しい終わり……あり得るものか……!」
直賢は、もう立っているのがやっとだった。
父の遺言を聞いた時は気丈に振る舞っていたが、その背は今にも崩れそうに揺れている。
「父上……!
なぜ……なぜ、わしが来る前に……!」
直賢は拳を振り下ろした。
石畳に乾いた衝撃が何度も響く。拳が砕けようと、泣き叫ぶように叩き続けた。
「守るべき者を守れなんだ……!
武の家に生まれて……なんの価値があろうか……!」
その肩を、直綱が涙まみれの顔で揺さぶる。
「父上っ……父上……!
わしのせいじゃ……!
わしが……人質にならなんだら……!」
直綱は直元の胸に縋りつき、喉が裂けるほど叫んだ。
「ひっ……ひぃ……!
祖父上ぇ……!
わし……わし……!」
言葉にならない嗚咽が、夜の京に滲む。
それは炎の名残が吐く熱よりも生々しく、胸に刺さる声だった。
西門からも、北門からも、南門からも外道破軍衆の襲撃に備えていた弟子たちが駆けつけていた。
皆が膝をつき、ただ地面を見つめる。
「――宗主……!」
「直元殿……!」
「吉岡の灯が……!」
童は顔を覆い、壮年は歯を食いしばり、長く直元と戦った戦友である老武人も震える肩を押さえながら涙を落とす。
彼らは知っていた。
吉岡直元がどれほどの命を導き、どれほどの道を守ってきたのかを。
そして、今まさにその灯が消えたことを。
直綱は涙に濡れた顔で叫んだ。
「嫌だ……嫌だぁ……!
もう一度だけ……祖父上に……誉めてほしかった……!」
直賢は弟子に支えられながら直元の手を握る。
温もりが消えていく。
その事実は、何より残酷だった。
泰清は髪を掴み、天に向かって吠える。
「神も仏も……おらぬのか……!
京を守るために命を捧げた男を……
なぜ、このような奪い方をするのじゃ……!」
夜風が吹く。
焼けた木片が転がり、血のぬめりに止まる。
弟子たちのすすり泣きが、消えかけた焚火の残音のように広がった。
梵寸は黙ってその場を見つめていた。
十二歳の体に宿る七十九年の記憶が、ひどく重く沈んでいく。
やがて彼は静かに歩み寄り、直元の前で膝をついた。
その眼差しには、童らしからぬ深い哀悼が宿っていた。
「……泣いてよい。
直元は……泣かれるだけの男じゃった」
その一言が落ちた途端、弟子たちの嗚咽はさらに濃くなった。
風が止まり、月が雲に隠れる。
まるで京そのものが直元の死を悼んでいるようだった。
梵寸は亡骸の傍らで目を閉じる。
(……直元。
そなたの死は、決して無駄にせぬ)
焦げた柱が風に揺れ、夜気が焦げ跡を渡る。
本圀寺の炎は消え、本能寺も守られた。
僧たちの祈りが、煙のようにかすかに漂っている。
梵寸はゆっくり息を吐き、思考を沈めた。
(本圀寺も、本能寺も焼かれぬ……
ならば来年、歴史に記される“天王寺焼き”も……避けられるやもしれぬ)
寺が残るという事実は重い。
法華宗の命脈が繋がれば、救われる者は多い。
(そなたが命を賭して守った京は……
確かに、歴史の流れをひとつ変えたぞ、直元)
しかし胸の奥は静まらなかった。
梵寸は自分の小さな拳を握りしめる。
(力を持ちながら、救えなんだ者もおる……天境といえど一人では限界がある……仲間を作らなければならぬ……)
石畳には、まだ直元の血の温もりが残っている。
梵寸は低く呟く。
「一人すら救えずして……何を救えると言えるか」
その声は誰にも届かず、夜風に溶けた。
◇◇◇
ふと、梵寸の脳裏に別の顔が浮かぶ。
妙蓮寺を守るため戦っていた、弟子であり親友――経心。
(あやつは……堺へ逃げたはずじゃ)
妙蓮寺陥落の混乱の中、その後の消息は途絶えたが、梵寸には確信があった。
かつて経心は剣も心も、梵寸の数少ない「友」と呼べる存在だった。
梵寸はゆっくり立ち上がり、泣き崩れる弟子たちに視線だけを向けた。
この場では、どんな言葉も虚ろになる。
だからこそ、あえて声はかけない。
(直元よ。わしは行かねばならぬ)
東門を離れると、焦げ跡の匂いを夜風がさらう。
堺への道は遠い。
京の外れには、道玄や破軍衆の残党が潜んでいるやもしれぬ。
それでも――迷いはなかった。
(待っておれ、経心。今、堺に迎えに行く)
雲の隙間から月が戻り、梵寸の小さな影を長く伸ばした。
その背は、十二歳には不釣り合いなほど静かで、孤独で、そして確かに強かった。




