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乞食からはじめる、死に戻り甲賀伝  作者: 怒破筋
第二章 天文法華の乱ーー燃えゆく京
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第百四話 風裂の真夜、影縛の破れ

八月四日、真夜中。

月は薄雲に隠れたり現れたりし、森の奥を冷たい光で断続的に照らしていた。湿った土の匂いが夜気と混ざり、わずかな風が梟の巣を揺らす。暗闇は深く、刀の反射だけがそこに人の気配を示していた。

風が鳴った。


低く唸るような風音ではない。刃そのものが空気を断ち割る、鋭い震えだった。

梵寸の指先が、ほんのわずかに揺れただけだった。

その一瞬で、勘助の頬に細い線が走り、赤い筋が静かに滴り落ちた。


「……速ぇな、梵寸とやら」


勘助が踏み締める土が微かに沈む。武人として鍛え抜かれた男の気迫はいまだ折れない。しかし呼吸は荒れ始め、利き腕の感覚がすでに薄くなりつつあった。

梵寸は静かに答えた。


「武は悪くない。だが、わしよりははるかに遅い」


声には挑発の色はない。訓練場で弟子に淡々と評価を述べるような、ただの事実だった。

十二歳の体でありながら、その声音には七十九年を生きた者の静かな重みが宿っていた。

勘助は歯を噛み、その痛みすら笑いに変えようとした。


「ならば……その差、踏み越えて見せる!」


踏み込みと同時に叫ぶ。

「山本流剣術──第一ノ型・滅影連刃ッ!」


剣風が重なり、幾筋もの閃光となって梵寸の全身を包む。鋭い斬撃が途切れなく続き、夜の闇を白く裂く。

だが梵寸は、その刃の合間を縫うように動いた。風そのものが形を取ったかのような滑らかな身のこなしで、勘助の技を躱し続ける。


そして剣と短剣がぶつかり、火花が飛び散った。梵寸は平然としているが、勘助の腕が痺れた。


「……ッぐ……!」


耐えきれず膝が沈む。それでも剣を下ろすまいと、勘助はぐらつく足に力を込めた。

圧倒的な武の差があるも、武人としての矜持。それだけが、彼を今この場に立たせている。

そのとき――。


「退け、勘助! これ以上は危うい!」


森の奥から芦屋道玄の声が響いた。焦りを抑えきれぬ響きだった。


「黙れ道玄ッ! 武人の戦はわしの戦だ! 横槍など不要よ!」

「だが──!」


道玄は必死に叫び返しながら、すでに印を切っていた。術者の気が夜気に混じり、冷たい波紋を周囲へ放つ。


「芦屋流陰陽術──第二ノ型・調伏影縛ッ!」


勘助の足元から伸びた影が揺らぎ、梵寸の足へ走った。闇が凝り固まり、蛇のようにうねり、足首へ巻き付く。


本来ならば術者の意志を宿し、獲物を動けぬまま地へ縫い付けるはずの影だった。

だが梵寸は、ただ神気を宿した目だけをわずかに動かして影を見下ろした。


「……ふむ、これが“陰陽師”の術か」


次の瞬間、風が通り抜けた。

それだけで影は裂け、破片が黒い砂のように四散した。音すら残らない、完膚なき破壊。

道玄の血の気が引いた。


「な……なに……!? 我が調伏影縛を……!」


梵寸がゆっくりと道玄に向き直る。

その動き――それだけで、道玄は息を呑んだ。足が勝手に後退しそうになる。


「陰陽師など邪魔だと言ったッ!!」


勘助の怒号が闇を裂く。

すでに傷だらけの身体を引きずりながら、彼は梵寸の前へと立ちはだかった。


「わしは武の道を歩く者……!

手を出されては、武人の名折れよっ!」


力が入らず片膝をつきながらも、その背筋だけは不思議なほどまっすぐだった。

勝てぬと分かっていながら、それでも逃げぬ。武人の矜持が男を動かしていた。


梵寸はその姿を一瞥し、ほんの刹那だけ目を細めた。

敵であれ、確かな誇りを纏う者へ抱く敬意。それが微かに宿る。


「ならば──その誇りごと、倒れるがいい」


梵寸の足元に風が集まる。

旋風が巻き起こり、落ち葉が円陣を描いて舞い上がる。夜気が震え、土埃が浮かび上がった。


「甲賀忍法──第二ノ型・風裂迅刃ッ!」


月光が裂けたかのような白い閃光。

風の刃が矢のように放たれ、嵐となって勘助へ襲いかかる。


「ぐ、あぁぁッ──!」


勘助の身体が宙へ舞った。

左目を裂かれ、片足を深く抉られ、骨が鈍い音を立てる。丹田が潰されて口から血を吐く。

全身に無数の切創が走り、血が土を濡らし、湿った地表に暗い色を広げていく。


「……っ……まだ……!」


勘助は腕を震わせ、立とうとした。

だが膝が地を打ち、身体は前へ倒れ込む。


「勘助ッ!!」


道玄が駆け寄り、崩れ落ちた身体を抱え上げた。震える腕で、必死に支える。


「覚えていろ……! この仇、必ず返す……!」


道玄の声は怒りと恐怖と悔しさが絡まり、掠れていた。

梵寸は無表情のまま告げる。


「勝手に怨め。わしは追わぬ」


その声音には、情も憐れみもなかった。ただ事実を述べたにすぎぬ静けさだけ。

道玄は歯を食いしばり、勘助を抱えて退いた。木々の間へと消えていく影の背は、怒りに震えながらも逃走せざるを得ぬ現実に押しつぶされていた。


梵寸は追わなかった。

ただ、風の残滓をまとって立ち続け、静かな夜の気配の中へ溶け込んでいく。


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