魔王の唾液に満たされて 1
八月三日。世の中は夏休み真っ只中。
外を走り回る子供の笑い声が聞こえる中、僕は朝食を作っている。
毎日毎日朝昼晩。料理をするのが僕の仕事だ。
「おはよう~」
眠そうな目をこすり、二階から降りて来た彼女。
「おはよう。もう少しでご飯出来るから歯磨いて来い」
「ふぁ~い」
気の抜けた返事をしながら洗面台に向かう。
神埼楓、中学二年。妹だ。
兄の僕が言うのもなんだが、そこそこ可愛く、クラスでは結構な人気者らしい。
そのうち彼氏とか連れてくるんじゃないかと思うと、少し複雑な気持ちにもなる。
「いただきます」「いただきます」
簡単な朝食。二人だけの食卓にも随分慣れた。
三年ほど前に事故で両親が他界。突然の出来事だったけど、悲しんでいる暇は無かった。
僕には楓を守らなきゃいけない、たった一人の家族として。そう思ったから。
「ちゃんと夏休みの宿題やってるのか?」
「お兄ちゃんと一緒にしないでよね。もうとっくに終わってるし」
衝撃の事実。ちょっと待て、まだ始まったばかりと言っても過言ではないぞ。
それともあれか? 毎年最終日に机と睨めっこをしていた僕が異端なのか?
「そうか。ならいいんだけど」
「お兄ちゃんこそ、まだ仕事しないの?」
ぐぬぬ。それは僕の中で、言われたくないセリフ第一位にランクインしている。
ちなみに二位は『まだ彼女出来ないの?』だ。
「探しているんだけど中々いい仕事が無くてな」
神崎勇士、十八歳。今年高校を卒業、現在無職。それが僕のスペックだ。
亡くなった両親の保険金やその他もろもろが、まぁ楓を大学に行かせる位には十分にあった。
兎にも角にも仕事をしなきゃいけない、という状況ではない。
それが僕を甘えさせていたのも事実である。
「ふ~ん。まぁ別にいいんだけどさ。お兄ちゃんの人生だし」
「でも、そんなんじゃいつまで経っても彼女出来ないよ」
くっ、殺せ。ワンツーフィニッシュかよ。
現実とは非情なもので、よくアニメに出るような可愛い妹など存在しないのだ。
昔は可愛かったんだけどなぁ。
朝食を終え、そういえば冷蔵庫の中身が寂しくなっていた事に気付く。
買い物も大事な僕の仕事だ。
「なぁ、僕ちょっと買い物に言ってくるけど、何か欲しいものあるか?」
「アイス」
ソファーに寝そべり、漫画本から目も話さず答える妹。
世界よ、これが妹だ。
『おにいちゃん、私アイスが食べたいな。えへへ』
などと言う事は天地がひっくり返ってもありえない。
そんな妹がいるなら是非僕の目の前に連れてきて欲しいものだ。
玄関を出ると、外は照りつける様な太陽の日差しがサンサンと降り注いでいる。
夏は嫌いじゃないが、この暑さはどうにかならないものか。
年々と暑くなっているような気がするし、あと十年もすれば耐熱スーツが必要になったりするんじゃないだろうか。
買い物を済ませ、家に帰る途中の公園で奇妙なものを見かけた。
――あれは、子供か?
照りつける日差しに銀色の髪を輝かせて、小学生くらいの子供が一人ブランコに乗っている。
外国人の子供だろうか。俯きながらただ黙ってブランコに座っているその姿は、なんとなく違和感があった。
着ている服も珍しい。着ている、というより巻いている、と言ったほうが正しいのだろうか。
周りに保護者らしき人の姿はないし、気にはなるが世知辛い世の中だ。
ちょっと人に優しくしただけで不審者扱いされたりする。
『買い物袋をぶらさげた不審な男性が少女に声をかける事案が発生』
最悪の事態は避けたい。触らぬ神に祟りなし、って言うし。
そんなことを考えていた次の瞬間。
彼女の身体がブランコから転げ落ちた。まるで倒れるようにゆっくりと。
流石に黙って見てる訳には行かない。思うより先に走り出す。
「おい、大丈夫か? しっかり――」
彼女の身体を抱えた瞬間感じた、一瞬時が止まった様な感覚。
艶やかな髪は絹糸の様に、虚ろな瞳はまるで宝石の様に赤く輝く。
そして彼女の全身からは、この世のものとは思えない程芳醇で、甘い香りがした。
「水をくれ……」
そう言った彼女を抱きかかえ、僕は走り出す。
目の前の曲がり角を曲がればもう家だ。
救急車を呼ぼうかとも思ったが、そこまで大したことなさそうだし。
――アイスが溶けてしまう。そう思ったから。
結果的に、これが間違いであったと後に気付くんだけど。




