054 婚約破棄された書記官令嬢は帰らない
王都から届いた帰還命には、北辺補給三面勘定帳の引継先が無かった。
朝の中央棟の長机で、私は第一番から第五番までの控えを順に並べていた。東二番粉挽所。王都外三宿共同釜。北路病室。外門夜番。継馬所。南厩。昨日まで白粉と挽割麦を追っていた帳へ、今朝は干豆と塩まで同じ番で入っている。番が増えたのに、机の上は前より静かだった。どの荷も、どこへ渡り、誰があとで払うかを同じ番号で追えるからだ。
そこへ王都使いが、青蝋のついた厚紙を差し出した。
王宮会計局復帰命。
私は見出しの下を指で追った。春季第一便到着後、王宮会計局書記官として復帰を命ず。北辺で起こした三面帳様式と直送照合式を携え、王都補給再編へ参与せよ。書きぶりだけは整っている。けれど、どこにも今ここで回っている第一番から第五番の受取先が無い。臨時照合係の札も、補給照合の席も、東二番裏入の返り票も、王都外三宿共同釜の昼椀も、その紙の上では今朝から宙に浮く。
「それで、誰が第三番の負担面を受けるんです」
私が言うと、王都使いは目を伏せた。
「命でございますので」
命令の下に、もう一通、別の薄紙が綴られていた。こちらはクラウス・ベルナー名義の写しだった。王都監査局臨時通達。南橋広場施穀停止。王太子宮名義の補給差配は、当面、王都慰撫会帳場と原簿照合席の連署へ移す。中央仕訳庫仕修席次席預り印は保全のため差し押さえ。ヴェイル家客間経由の写取済文面回収は停止。毛布束番四は、本人確認印と帳場責任印が揃うまで城南施療院留置。以後、北辺より送られた三面帳様式を準用し、受益面または負担面を欠く補給紙は受理しない。
右下に、あの歪んだ小さな朱は無かった。
「抽斗ごと剥がれたわね」
ミラが私の肩越しに読み、鼻で笑った。
「広場の喇叭も、次席預り印も、もう一枚だけでは通らない」
ローデリクは復帰命の紙だけを私の前へ戻した。
「帰るか」
私は答える前に、第一番の受益面を開いた。共同釜昼椀五十八の下へ、今朝戻った追記がある。病室粥七。外門夜番麺四。欄の端には、セシリアが昨夜のうちに整えた返り票番号が細く入っていた。机の向こうでは、頭取が第五番の塩袋数を待っている。ここで一人分の席が欠ければ、帳はまた一面ずつ切られる。
「王都へ帳は送れます」
私は復帰命を閉じた。
「でも、私は帰りません。この紙は、北辺で回り始めた仕事を、また『後で誰かが埋める』形へ戻します」
王都使いの喉が動いた。ローデリクはそれ以上うなずきもせず、引き出しから二枚の紙を出した。片方は空の任用控え。もう片方は、まだ何も書いていない木札だった。
「春になっても足りる名を決めろと言った」
彼は領主印の隣へ紙を置いた。
「空けたままにする気はない」
私は筆を取り、任用控えの見出しへ書いた。
北辺補給照合席常設控え。
その下へ、河港越冬荷受け規定、冬季入津税留保特権、施穀粉挽留保本紙、北辺補給三面勘定帳、原簿照合席直送、受益面負担面欠落時差戻し、と必要な条だけを並べる。任期欄で一度だけ筆が止まり、それから「期限を定めず」と書いた。ミラが横から第五番の空欄へ塩袋数を書き入れ、セシリアが新しい控え番号を振る。頭取はそのあいだに荷車番へ声を飛ばしていた。
「席名はそれでいいの」
ミラが訊く。
「ええ。読むだけでも、数えるだけでも足りませんから」
私は木札にも同じ名を書いた。北辺補給照合席。その下の細い行へ、自分の名を入れる。
ローデリクが任用控えへ署名した。領主印ではなく、欠支弁仮受人としての名と、北辺特別保管領預かりとしての名を並べて置く。私もその隣へ署名した。冬の予算評議会で名前を切られたときより、筆先が深く沈む。
「王都への返書は」
ローデリクが言う。
「今書きます」
私は復帰命の余白ではなく、新しい直送紙を一枚引いた。
帰還辞退 兼 三面帳継続通告。
第一行に、王都へ必要な帳と写しはすべて北辺補給照合席から直送すると書く。第二行に、受益面と負担面を欠く補給紙は王都の誰の名義でも返すと書く。第三行に、私は王宮会計局書記官としてではなく、ここで起こした帳の責任者として署名する。
王都使いはその紙を受け取るとき、もう「命でございます」とは言わなかった。両手で持ち、宛名面を確かめ、深く一礼して下がった。
戸が閉まると、頭取が第五番の返りを机へ置いた。塩二、豆一、病室追給二。ミラが受益面へ追記する。私は新しい木札を領主印の右へ置き、第一便用の空紙を引き寄せた。
「次は第六番です」
そう言って罫を引くと、すぐ隣でローデリクの硯が静かに鳴った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
エリノアが最後に選んだのは、王都へ戻る肩書きではなく、自分の仕事を自分の名で引き受ける席でした。
怒鳴り返すのではなく、帳と制度で居場所を作り直す結末まで見届けていただけていたら嬉しいです。
本作にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




